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昔の金澤⑥奉公人の商人化と取持人

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【金澤の藩政期】

最大の外様藩であった加賀藩は、17世紀初頭に100万石になると家臣も増加し、家臣の増加に伴い武家奉公人も増加します。当時は知行を得ている武士は若党1人、下男2人、門番1人、下女12人、裁縫女1を雇っていることが義務でした。他に馬を飼っている家では別当を雇っていて、奉公人も武士軍役を担っていました。ところが、17世紀後期から金沢城下では、都市化が進み商業発達に伴い町方人手が必要になり、町方奉公人は武士社会より厳しくはなく気楽給与も高い町方奉公人に替わるものが増え始めます。そのため、武家奉公人が不足し、藩の役所や武家の家事にも差支えるようになると、武家奉公人より町方奉公人に移らないように監視する一方、奉公人渡奉行を任命して農村から武士奉公人を募集につとめます。

 

 

 

(藩政初期は農業労働力の確保を第一義とし、その余りを武家奉公人に廻すという原則のもと加賀藩では、寛永18年(1641)頃には武家奉公人給銀上昇がみられたため、その抑止を目的として奉公人渡奉行が設けられました。この奉行は、最初は隠居の利常公の居城小松の給銀上昇抑止を目的としましたが、その後、藩全体の武家奉公人統制を担当したらしく、まずは、在方(田舎)より武家奉公に出る者は、郡奉行を経て奉公人渡奉行に渡されますが、やがて、この奉公人渡奉行の存在がむしろ武家奉公人の供給を遅滞し、その結果あまり武家に歓迎されなかったことから、この奉公人渡奉行は寛文2年(1662)中に廃止になりす。)

 

 

 

藩政期中期の正徳・享保期(171135)には武家奉公人の自立が増加し、武家奉公人は益々不足し、石川郡・河北郡出身の武士奉公人のうち15%が家を持ち、借家人もまた商いを始めています。武家奉公人の自立については、魚屋、八百屋、呉服屋などの小商人で、いずれも、先の奉公先を訪れ“出入り”を願い出て、出入り商人となることが多く、その一方で奉公人の需要は益々多くなり農村の労働力空洞化して行きます。

 

 

 

(それを受けて、藩が正徳4年(1714)5月に設置した奉公人裁許与力・奉公人取持人(とりもちにん)を設けています。これは、当時領民の他国出や、領内における武家奉公人の日用・ざるふり(魚・青物の行商)等への転身を原因とした武家奉公人不足の解消を狙ったもので、6名奉公人裁許与力と、その指揮のもとで奉公人を調達する民間の者として4名奉公人取持人が任命します。奉公人裁許与力の役所は、与力6名、留書足軽2名、役小者3名で構成され、奉公人裁許場所と呼ばれ、奉公人を雇い入れたい武士は奉公人裁許場所に申告し、そこから奉公人取持人にその旨伝達され、奉公人取持人は主人の希望に沿う奉公人を町方、在方より調達し斡旋し、奉公契約の締結は、奉公人取持人2名が請人となって証文を取り交わした。その際下請人の設定が義務づけられ、奉公人取持人への世話料は、春・暮に分割支給される奉公人給銀のうちから、各1匁(約1,700円)ずつ(江戸詰の者の場合は1匁5分ずつ)を主人が残しておき、主人より直接奉公人取持人に渡されました。ところが、この機関は設置翌年の正徳5年11月には、以前より奉公人を雇うのに支障が出ていると指摘される始末で、さほど効果的なものではなかったようで、奉公人主附と呼ばれる主任をおく機構強化が図ったが、結局設置後 10年ほど経った享保 10年(1725)2月に廃止されます。期待されたほどの効果を上げられないこの機関は、財政健全化のための倹約政策実施にあたり,真っ先に切り捨てられています。)

 

 

 

文政期(181829)には武家奉公人・町方奉公人を斡旋する奉公人取持人という町人がおり、当時44にのぼり、奉公人取持人には後家もおり、斡旋料が過分だったため藩から公定料銀が示され、武家奉公人の場合、最高で500(約8,500円)最低200(約3,400とされたが、町方奉公人は手代が500(約8,500から400(約6,800円)、下男が3005,100円)、前髪の下男が200文、下女が300から200とされています。

 

(金沢城下には、前出の通り中期から奉公人取持人と呼ばれる斡旋業者が存在していましたが、上記、文政~天保期のものと推測される史料では、当時の城下には奉公人取持人が44人、乳母奉公人取持人が10人、大身奉公人取持人2人がいて、この取持人には営業権を示す焼印札が渡され、この営業権は譲渡可能で、取り扱う対象は、「御家中ナラビ家中オヨビ金沢町ニ罷在候者、寺社家ニ召仕候小者・下女,其外町方男女奉公人」と全般にわたっていました。ただし、茶屋女には関与しないことになっていて、奉公契約に際しては取持人2名が請人となり,請合状は請人の手で作成して主人に渡すのが原則でした。この取持人は仲間(組合)を結成しており,請人義務は仲間一統の連帯責任とされていたと云います。)

 

(赤いラインは富田家の十間町角・延宝の絵図より)

 

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森田柿園の「金澤古蹟志」に、寛文・元禄頃か?金沢十間町角富田氏の土蔵の腰或いは塀腰に集まり、諸士・町方へ奉公を希望する者を対象に女奉公人辻人があったことが書かれています。毎年3月5日の出替日頃に女奉公人辻人市が立ったと推定され、奉公先を求める女性雇主とがここで直接交渉し、雇主が人体を見て給金・宛行高を取り決め、それぞれ連れて行ったと伝えられています。期間は通常1年季であったらしく、取持人はなかったと云われています。このように自由な奉公人市を藩が認めていた分けもまく、寛文9年(1669)2月16日の「金沢町会所留記」と延宝7年(1679)3月4日の「正記」には、女奉公人辻立を禁じているとあります。

 

つづく

 

参考文献:「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和635月発行・「金澤古蹟志巻7」森田柿園著 金澤文化協会 昭和8年8月発行・「江戸時代の奉公人調達・斡旋に係わる事業・業者の諸類型試論」 吉田正志著 立命館法学. 2010(56)など

 


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