【金澤の藩政期】
昔の金沢の人口は、元禄10年(1697)町人戸数12,085軒、人口約68,600人(一戸当り5,7人)(本町2,285戸、地子町9,446戸、旧門前地大工地354戸)武家約42,000人と合わせた人口は約111,200人。文政4年(1821)の町人の人口約68,100人、武家人口約46,500人と合わせると約114,600人となっていて、江戸中期から金沢の人口は10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないもののそれに次ぐ都市でした。
(藩政期、金沢の町人奉公人や武家奉公人の中には、金沢の人別に無い者(金沢に住民登録していない人)も多かったと云われています。また、幕末、日本の人口は約3,500万人で、その内武家は約34万人で、家族を含めて約200万人。全国民の約6%でしたが、金沢では武家と家族は42%と他藩と比べ圧倒的に武家が多い城下町でした。因みに明治4年の調査の石川県史料では、金沢に総人口は123,453人になっています。詳細は士族4,932戸2万6,028人、卒4,607戸2万6,888人、平民1万4,907戸6万8,810人、元神官39戸139人、寺院259戸1,032人、御預人466人)
文化8年(1811)の金沢町名帳によると、商家は2,847軒と85種の生業が確認できます。主な商業は、小間物屋275軒、魚鳥商205軒、古着商106軒、米へぎ屋149軒、油小売140軒、古金買133軒、古手買106軒、米中売74軒などで、米仲買や魚問屋など主要な商家は尾張町、十間町、近江町、今町、新町、鍵町に集中したという。因みに前年の文化7年金沢町の民家は13,793軒で56,355人の記述があります。
(金沢町名帳で民家の生業を拾うと、味噌・醤油・豆腐・油小売・酒造・へぎ屋・炭薪・青物取次・八百屋・魚問屋・魚鳥商・酢塩小売・麹室屋・米仲買・蕎麦・生菓子・干菓子・団子餅・煎茶・たばこ・飴屋などの食に関したものから小間物屋・武具、馬具・古道具商・古手物・古金買・塗物・赤物商・紙・墨筆・紅粉商・合羽商・呉服・太物商・仏具・木羽板・傘細工・真松花・煙草屋・唐津物窯元などの生活必需品や道具類を販売する商家があり、他に蔵宿・薬屋・銭屋・料理屋・町医師・質屋・座頭・風呂屋・腰掛け茶屋・宿屋・口入れ屋(日傭頭)など、また、口入れ屋に所属する稼(かせき)後家の荢絈職(からむし)・振売り・山商いなどが見え、職人は大工・左官・鍛冶職・建具・塗師職・御細工職・印判・畳刺・桶屋職・紺屋職・髪結職・綿打ち・縫い物・煙管細工などが載っています。)
拙ブログ
尾張町の町学者「空翠(くうすい)」
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10826210478.html
文化8年(1811)当時の尾張町の商家は殆んど一品の専門店でしたが、今町・中町では53店中、兼業が味噌・醤油の1店、新町・鍵町でも味噌・醤油でも1店が見えます。橋場町では32店中、古手・呉服、古手・大物商、清酒・生菓子、紙・合羽・古手商の4店を見ているほか、1店は3種の商品を販売しています。片町では41店のうち、2品目以上を販売しているのは仏具・古道具商、塗物・赤物商、紙・小間物、米仲買・紅粉商、紙・合羽商、呉服・大物商、椀・家具・赤物商、墨・呉服・太物商、質・呉服・太物商などがありました。
藩政初期の武士の町人観について、当時の金沢町奉行脇田九兵衛(1,700石)は「武士の禄高は先祖の功績によるが,町人の財は町人1代の才覚により富裕者になれる。また、才覚と知恵が発揮できなければ破産する。これは戦国時代の武将の興亡・盛衰に匹敵する。商人の中で富裕者になった者は,商人の世界では英雄であり、これからの体勢は商人に移るのは当然の成り行きで、その商人社会の英雄を使い得るのは武士であり、武士社会に役立つように利用すべきである。」と云っています。
拙ブログ
西田家庭園「玉泉園」と脇田九兵衛直賢➀
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11742999642.html
玉泉園を作庭した脇田九兵衛直賢➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11744735655.html
脇田は、社会の現実を直視し、町人を無視して武士社会が存在しないこと、町人を活用した経済政策の展開を期待していたようです。
ところが、幕末になると、金沢の町奉行渡辺隼人(700石)は、最近の金沢城下の景気は停滞というより良くないと云い、その為に悪事を働く者や出合宿を営む者が増え、厳しく取締まることが大切であるが、金沢のような大きな都市では難しい。むしろ抜け道をつくってやることが大切であると随分に弱気です。町人が増長しないように適度に取締まることも肝要であるとも云う、それには下層民の打ちこわし・騒擾を起こさせない為なのか、同じ金沢奉行で藩政初期と末期では、随分違った町人観が窺えます。
つづく
参考文献:「わが町の歴史金沢」田中喜男著 文一総合出版 昭和54年発行「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和63年5月発行 金沢市・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか