【金澤・藩政期】
家持ち(以下亭主という)は云うまでもなく自分の土地に自分の家を建てている人々のことを云い、借家人は借家住まいの人々の事で、前にも書きましたが町のあらゆる会議や行事に出席も発言も出来ない法制的には“町人”とは認められていない人々でした。以下、的確でかなり分かりやすい田中喜男著「金沢町人の世界」を参考にというより殆ど引用させて戴くことします。
亭主(家持ち)は、城下で組織されていた“十人組”の一員でしたが、城下の住人で藩主や町運営上の諸役を負担し、町運営の諸会議に出席し、町役人に選出されました。十人組は10軒を基準とした(二十人組や三十人組も存在した)近隣のグループを云う。町の隣保組織の最小単位で、“お上(藩主)”の役に立たない下層民は“お上”の費用を使うのは無駄遣いとする藩は、町人の間で自主的に助ける互助共済を目的に作られもので、今、首相が掲げる自助、共助、公助のうちの共助を強調するあれとよく似たものなのかも・・・?
(西別院、東別院辺り・安政絵図より・石川歴史博物館蔵)
(隣保組織:江戸幕府が町村に作らせた隣り組で村では五人組で5戸を一組とし、相互監視、密告をさせるのが主な目的で、他に連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門などの取り締まりや貢納確保、相互扶助に当たらせたもので、町は十人組で、藩主に役立たない下層民を町で面倒を見ろと云うことだったようです。元々は中国で始まり、第2次世界大戦中には~助けられたり助けたり~と隣り組が組織されていました。)
(西御坊町・西別院辺り、文化8年金沢町絵図より)
金沢での十人組は、社会的にも政治的にも城下町の最小単位で、5町から6町で組合をつくり前にも述べた組合頭を置き、組合が集まり町とし、町は町肝煎が才許し、十人組では亭主(家持ち)が1年交替で町の世話人となり箱番と云われ、箱番は遺言状や公的書類を管理する箱を管理しました。
(才許:加賀藩では、裁許とも書き、一定身分の者又は事務を統制する主附(ぬしづけ)今の主任)
借家人は一般に地借り(じがり)、店借り(たながり)と呼ばれ、身分は町人であるが、長屋住まいの“熊さん”“八っさん”と同様の法制上の「町人」ではありませんでした。なお、町人の富裕町人以外は、亭主(家持ち)を“おやっさん”妻女は“おかっさん”と呼んでいたと云う。
(亭主(家持ち)は本町、地子町の区別なく、役(負担)と称し防火・消防、盗賊の警戒などに出る義務があり、本町では亭主番と称し昼夜となく警戒にあたり、地子町では一時番(いっときばん)と称し、夜間(午後6時~午前6時)一時(2時間)ごとに“番の棒“を突き、拍子木(ひょうしぎ)を叩きました。このほかに、町内に預けられた軽犯罪人の監視や食事代も亭主(家持ち)の負担でした。)
(西御坊町・日雇い(かせき)や苧絈(おかせ)嬬(やもめ)の文字が見えます)
文化8年の金澤町名帳より(玉川近世史料館蔵
下層民の中には、添い合いを亡くした後家(女性)や結婚しない寡婦(女性)の家持ちが相対請地から地子町になった町に多くいて、これらの女性家持ちは後見人を立てているが、仕事は笠縫い・おかせ(麻を紡いで巻く仕事)は日雇い・手間稼ぎなどで、その日稼ぎの人が多かったらしく、米価が高騰すると、これら貧しい層の女性たちの生活はもろに影響しました。幕末の話ですが、下層民が集住する地子町や寺社門前の肝煎・寺社煎は藩に対し「私共が支配している町民のなかで、貧しい後家や寡婦(やもめ)たちは物価の高騰で途方に暮れています。先ごろから大雪となり、日雇いの仕事は止まり、自宅の雪の始末に稼ぎにも出られず、ことに後家・寡婦・幼少者・長患いの病人の家では雪下ろしもできず、今にも潰れそうです。男亭主以外の女亭主の生活がなんとか成り立って行きますように、非常のお救い米をお願いいたします」と歎願しています。後家・寡婦の生活は極めて厳しいもので有ったと伝えています。
この様に後家・寡婦は町で定められたいろいろな負担を果たすことが出来ず、そのためにこの分を町全体が負担しなければならなく、町としてはよろしくない者として、組合頭や町肝煎は事あるごとに養子・婿とりをすすめたという。しかし家財のない家には養子も婿の希望者もなく、藩はこのような女性亭主の収入を増やすよう町役人を叱咤しますが、ままならず
幕末には、組合頭の勤めは大半がこの下層民の実情を町奉行に報告し、職業を斡旋し暴動を未然に防ぐ事に心血を注いだという。
つづく
参考文献:「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和63年5月発行ほか