【旧野町界隈】
金沢では、元和2年(1616)頃から3代藩主前田利常公は金沢城の防備や寺社の管理・宗旨人別(寺請制度)を行い、さらに一向宗対策として、城下に散在していた寺社を「寺町寺院群」、「小立野寺院群」、「卯辰山寺院群」の3か所に移転させ配置します。その3つの“寺のまち”のうち今回は「寺町寺院群」の中でも野町筋にある8寺院の最終回です。
(野町の大通りより、光専寺と堅正寺)
(また、今回は元禄2年(1689)、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の旅と途中で金沢に滞在し、高禄の武士や僧、職人、商人、はたまた乞食放浪の風雅人など各層の門人との出逢い、伝説とも言える、それらの余り伝えられていない逸話等を記します。)
(寺町寺院群の一部・野町の通りの寺院も含む)
普潤山光専寺(浄土真宗大谷派)
金澤古蹟志によると俗に末の光専寺と呼んだと云われています。文明年間(1469~1487)、僧慶緑が蓮如上人に従い加賀の布教したとき、石川郡末村の創建した寺院で、3世慶俊のとき、佐々成政の重臣黒川又右衛門(家禄700石)が、成政の負け戦で流浪に末、僧になり、慶珍と称し四世となったと伝えられています。慶珍は利常公の母堂寿福院の御存じの者と云われ、元和年間(1573~1592)、小幡宮内より、泉野に30間四方の寺屋敷を拝領、後、下安江町に移転、万治4年(1661)野町の現在地の寺屋敷を拝領。前通り46間3尺、奥行き南側18間、北側7間3尺と延宝の金沢図にあります。
(光専寺)
拙ブロブ
金沢・城南石坂台⑤加賀藩人持組藩士の下屋敷
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12677234876.html
(生駒万子の分骨墓・光専寺の墓所)
≪芭蕉と万子と浪花≫
後に光専寺の住職になる生駒万子(生駒重信1000石取の普請奉行で蕉門の俳人)の次子で、ここに父万子の分骨墓があります。万子の墓は、三構の曹洞宗の高巌寺にありますが、このお寺にも松尾芭蕉に関わる伝説が残っています。生駒万子(萬兵衛重信)は、前田家の客将生駒内膳守直方の子孫で千石を拝領し、後に普請奉行。妻は俳人(長緒)でもあった加賀藩家老(1万石)津田玄蕃の息女で、姉妹が同じ加賀八家の本多安房守(五万石)の媒酌で嫁した井波瑞泉寺の11代住職浪化上人とともに、芭蕉に傾倒した俳人でした。
(詳しくは、密田靖夫編「芭蕉・北陸道を行く」)
(寛文の光専寺は、現在の反対側に参道があります)
(生駒万子:承応3年(1654)、生駒直勝の二男・生駒八郎右衛門の嫡男として金沢に生まれ、はじめ談林派に学んだという。貞享2年(1685)の「稲筵」。貞享4年(1687)の江左尚白編「孤松」に小杉一笑らとともに入集。元禄2年(1689)芭蕉に入門。山口素堂、谷木因とともに芭蕉の三友と言われ、立花北枝、秋の坊らと交遊し、秋の坊が「寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人ぞ恋しき」との歌を詠んで無心をすると、「寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人をこそやれ」と返歌して炭を贈るなど、経済面で俳友を助けたという。越中井波瑞泉寺の浪化とは姻戚であり親しく交わったという。また、各務支考の庇護者でもあったという。享保4年(1719)4月27日、享年66歳で没す。法名は水国亭一道万子居士。金沢の高巌寺に葬られます。分骨墓は次子が住職だった光専寺にあります。編著に、浪化・支考との共編「そこの花」や、遺稿となった「金蘭集」があります。)
≪生駒万子・四季の句≫
一とせや餅つく臼のわすれ水
秋草に何のゆかりぞ黒き蝶
のむ程に三日月かゝる桜哉
夏野来て思ひもかけず川に橋
拙ブログ
昔々、卯辰山の山崩れ
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井波の風➁
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(堅正寺)
堅方山堅正寺(真宗大谷派)
普潤山光専寺(浄土真宗)の門前にあり、加能郷土辞彙には、金沢野町に在って真宗東派に属するとしかなく、金沢市のパンフレット寺町寺院群「静音の小径」には、正徳3年(1713)皆恵により現在地に創建されたとありますが、金澤古蹟志には記述もありません。寺内寺?道場?かも定かでは無く、今のところ私にはそれ以上のことは分かりませんが、ご存じの方、ご教授頂ければ幸いです。
(立正寺)
統一山立正寺(法華宗真門派)
昭和の初期まで源入山本光寺と称し、承応2年(1652)小幡宮内の与力馬杉九郎兵衛の発起で光要院日達が開山し、初め寺地は六斗林にありましたが、延宝8年(1680)泉新村を請地として移ります。昭和の初め妙安寺(妙法寺と安立寺を併合したもの)が合併して立正寺と改めました。前田家に仕えた勤王の志士不破富太郎や明治の貿易商円中孫平の墓所です。
(寛文11年(1671)の士帳に、小幡宮内与力、100石馬杉九郎兵衛八十三歳とあります。)
(不破富太郎:文政6年(1823)3月14日生まれ。加賀藩士。槍の達人で、平田派の国学を信奉。元治元年世嗣前田慶寧公にしたがい京都に行き、長門・萩藩との連携を図る。禁門の変後、藩論は佐幕に一変し、富太郎も慶寧公の退京の責を問われ、元治元年(1864)10月18日切腹を命じられた。42歳。名は友風。)
拙ブログ
(現在の立正寺辺り)
(本光寺町:金澤古蹟志に光専寺の南側たる小路をいい。この小路入口小家共24戸あり、旧藩中は本光寺の門前地也故に本光寺寺町と呼んでいたが、明治廃藩置県の後、門前地を廃し、町名を立て桃畠町と称す。)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行 パンフレット「静音の小径」金沢市発行 「芭蕉・北陸道を行く」密田靖夫編 北国新聞社出版局 平成10年発行 「古今金澤」など