【江戸・金沢】
寛永16年(1639)11月、4代目加賀藩主になった前田光高公は満23歳で初めてお国入りを果たします。当時は、入国祝賀の儀式能はまだ藩の公式記録なく「三壺聞書」に寛永17年(1640)元旦に、家中一同の年賀の礼を光高公が受けて、5日に御能が催されたとか書かれています。この御能が「お国入能」の最初であろうと伝えられています。
(当日の御能は、金春の竹田権兵衛、春藤勘右衛門のほか能役者どもは京より下り、御松囃子(後の謡初め)を勤め拝領万々の目出度い事であり、光高公の御座の右に天徳院泉滴和尚(母球姫の菩提寺)、波着寺法印が着座、千畳敷の正面に本多安房守がくくり頭巾(大黒頭巾)で着座して、縁通は御家中の小将(小姓)たち数100人が並び、世話係は御前の白洲にうかがい、御用などを何度も承り返盃の取次をし、役者共に鳥目(銭)や呉服を下り、小将衆が要脚(銭入れ)広蓋(大きな盆)を持って舞台へ続いて運び、奥村河内守が舞台の真ん中に座っていて、御小袖を渡され、太夫をはじめ、舞台を掃き清めた者まで頂戴した。と書かれています。)
(石川門)
(天徳院)
拙ブログ
天下の書府➀宰領足軽が著述した三壺聞書
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この時の御能は、式三番とあるから翁立であって七番、翁はもとより金春の竹田権兵衛であり、金春流のワキ役者春藤勘右衛門の名が初めて見え、(春藤家も竹田家同様、京詰めの御手役者として幕末まで続けています)地謡方も囃子方も京から下っています。大鼓は石井流の仁兵衛、小鼓はおそらく幸五郎次郎流の糟谷、太鼓は京の観世流の小寺、笛は森田流の笛の杉等いたと思われるとあり、金沢の諸橋、波吉両太夫の名は見えないが、浅井長政の一族の浅井紀伊之助の名が見えます。紀伊之助は、利常公の時に召し抱えられ、光高公が世子にとき側用人になり、その舞台の作法は将軍家を模したもので、いわば光高公の能の師であったのかもと思われます。
(加賀前田家4代目前田光高公(1616~ 1645)は、母は球姫(天徳院)で2代将軍徳川秀忠の娘。家康の外曾孫で加賀藩祖前田利家公の嫡孫でした。3代将軍徳川家光は母方の叔父にあたり、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時甥であるこの光高公を後継者にしようとしたという。光高公は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話があり、しかも、美男子と言われ、当時から家光の衆道(男色)相手をしていた時期もあったという噂が流れていたという。正保2年(1645)4月5日、大老酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死します。享年31(満29歳没)世子綱紀公は3歳、父利常公に先立つ死でした。)
(藩政期の津田邸)
光高公入国の頃の逸話
当時、徳川家が切支丹に対する禁圧を強めていたが、多く無実の人が罪に落とし入れています。その中に光高公の寵臣津田勘兵衛重次もその一人で父は戦国時代のつわもので、先祖は越前の守護斯波家に繋がり禅宗の旦那であったが、金沢城の大手に勘兵衛は高山南坊の信者で、「今も信仰を改めない」と高札を立てた者がいて、藩は無実と知りながら勘兵衛は江戸送りになり、幕府の手に渡した事件がありました。その頃、勘兵衛の10歳と14歳の2人の孫が、能好きで面を付けず(かけず)能を舞い金沢の大名小名も見物に集まり大いに賑わったとあり、女面を付けず(かけず)少年が美女に扮するというところに人気があったのか、その人気の最中にその事件が起こり、その哀れさに人々は涙をしぼったと「三壺聞書」で語れられているとか、そう云えば高山南坊の総領十次郎の“能を見よなら高山なんぼう おもてかけずの十次郎と、かやうに童どもうたいけり”と同時代であり、少年の面かけずが流行ったのであろう。演芸は何時の時代も、美しくて陰のある若者が人気の集めるのでしょう。
(加賀藩人持組津田玄蕃家初代当主の妻海津夫人(畠山家俊の孫)は切支丹であったとされ、畿内に在住していた頃に入信したとされています。)
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キリシタンと金沢➀~⑤高山右近
徳川家と4代藩主光高公
光高公が曽祖父家康公への崇敬の念から金沢城内に東照宮を造営。それに対し父利常公は「若気の至り、いらざる事をする」と不満をぶつけ「徳川家がこの先どうなるか分らないのだから、藩主として分別せよ」とたしなめたといいます。
(今も移転し残る尾崎神社・旧東照宮)
光高公は、お国入りした翌寛永17年(1640)3月には江戸に参府し、その後一度、寛永20年(1643)7月に国に帰ったものの10月には江戸に向かっています。まもなく綱紀公が生まれているので急いで参府したのであろう。4代藩主の在国は僅少で、治政は7年間、従って演能の記録は少ないまま光高公の治世の時代は終わりました。
≪御能の式三番≫
式三番は、猿楽が成立する以前の翁猿楽(老人の面を付けた神が踊り語って祝福を与えるという芸能)の様式を留める芸能で、もともとは五穀豊穣を祈る農村行事であり、翁は集落の長の象徴、千歳は若者の象徴、三番叟は農民の象徴であるとされています。
(翁面)
父尉・翁・三番叟および風流から構成されますが、父尉・翁・三番叟が、かならず連続して上演されたのでこの呼び名があり、室町時代以降父尉は省略し(今は「翁」の特殊演出「父尉延命冠者」に名が残る)、翁を能楽師が、三番叟を狂言師が担当するようになり、いずれも筋立てというほどのものはなく、老体の神があらわれて天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祝祷する神事的な内容で、五番立の場合には脇能に先だって、全体の祝言として演ぜられます。
(式三番に要する役者は、翁役の大夫(シテ方)、千歳役(上掛りではシテ方、下掛りでは狂言方)、三番叟役(狂言方)、面箱持役(上掛りに限って出る。狂言方。三番叟の段で問答の相手役を勤める)、笛方、小鼓方3名、大鼓方の計8ないし9名のほかに、地謡、後見などである。小鼓は3丁で連調し(シテになる小鼓方を頭取、残りの2名を脇鼓という)、大鼓は三番叟にのみ加わり、太鼓方も舞台には出るが、式三番に続いて上演される脇能から参加し、式三番そのものには加わりません。)
つづく
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金沢の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等