【金沢・江戸】
寛文元年(1661)7月、5代藩主前田綱紀公が満13歳の初入国に際し、金春流の竹田権兵衛が入国能を勤めています。白洲の町人たちにも赤飯を賜り盛大であったという。以後、お殿様の入国能が前例となります。元々は加賀藩では金春流でしたが、綱紀公の頃、将軍綱吉が特に宝生流をひいきにしていたので、綱紀公は国元の諸橋、波吉らの能役者を宝生流に転向させ、綱紀公自身も宝生流に弟子入りし能を舞うようになります。後に加賀宝生と呼ばれるほど、金沢では宝生流が盛んになり、綱紀公は、町人の御手役者たちに名字を許します。
さらに、加賀藩には御細工所の職人に工房の仕事とは別に、綱紀公の能のお相手を目的に能の稽古を奨励します。これを「本役兼芸」といい、御細工所の職人たちは地謡や囃子方、ワキツレなどを務め、参勤交代で綱紀公が江戸へ出府の時も同行し、江戸在住の能役者に弟子入りするものもいたという。職人の中には、能の舞台装置の作り物を作る者や、針仕事を本業とする者が役者に能装束を着付ける役を担当し、本業の技術を生かしながら裏方として能に携わる者もいました。綱紀公はプロの能役者や町の兼業役者だけでなく、家臣たちに御能の相手を命じ、稽古を奨励したので能の催しや稽古が盛んだったという。
(石川県史(第二編)によると、加賀に於ける兩大夫(諸橋・波𠮷)以下、いわゆる御手役者と称する者は、皆、町会所の支配に属し、もつぱら、御能立方の技芸を研修する職とするが、綱紀公は、なおその外に余技としてこれに練達するものを保護奨励します。すなわち藩の制に細工所というものあり、細工奉行・細工小頭・細工者等之に属し、刀剣の鍛冶研磨・蒔絵・髹漆・裝束・武具以下諸種の工芸を掌らしめしが、綱紀公は彼等の中に御能のシテ方を除く各部門を兼芸とする者を置き、これに加俸を与えています。・・・・云々とあります。)(文体も直し漢字も新字体にしました。)
拙ブログ
“綱紀公と文化政策”御細工所➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11587451645.html
密田良二氏の「金沢の金春」には、貞享3年(1686)に松雲公綱紀公が宝生流を学んで以来、加賀宝生の名が天下の喧伝されるようになりましたが、藩祖利家公以来伝統の金春に対する庇護もなおざりにされていなかったと云う。幕末における加賀藩御手役者の中に、京都在住の金春役者の名が数多く見えます。
シテ方 竹田権兵衛 (金春流) 300石 ツレ方 武部常次郎 (金春流) 判金2枚 地謡方 松田熊二郎 (金春流) 判金2枚 後見方 加藤子勘蔵 (金春流) 判金3枚 等 |
5代将軍綱吉と御能
江戸時代の御能は将軍の好みに左右されることが多く5代将軍綱吉は、将軍就任以前からも能に異常なほど耽溺しています。自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも能を舞うことを強要し、さらに自分の能の相手をさせるために多くの能役者を武士の身分に取り立て江戸城内に仕えさせます。また、前出の綱吉が特に宝生流をひいきしていたため、暗に強制で加賀藩前田家に宝生流に転向させるなど、当時の能の世界にも大きな影響を及ぼしています。
(綱吉は玄人の能の演じ方にもたびたび口を挟んでいます。本来のしきたりにならって、綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあり、江戸時代に成立した喜多流は、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされたほどでした。また、綱吉は、当時上演が途絶えてしまった珍しい曲を観ることを好み、将軍の好みにあわせ普段めったに演じない曲や伝承が途絶えた珍曲を復活させなければならないので能役者たちは苦労したと云います。)
「猿楽役者士列に入るの始也」
(因みに、猿楽は、「申楽」とも書いています。申は干支では「サル」と読み、“楽しみを申す”から申楽ともいい、また、神楽の「シメスヘン」を取ったのだとか云われています。)
猿楽と能楽:江戸時代は「猿楽」が正式名称で、明治初年(1668)に「能楽社」という団体が作られてからの名称です。能楽社は、その時の後援者(華族・新興財閥など)で作られた団体で、その団体が建てたのが現在靖国神社に残る「能楽堂」です。(創建は今の東京タワー辺り)江戸幕府に「猿楽の制」という規制があり、猿楽を英訳にすると「モンキープレイ」では諸外国に紹介出来ないということから、旧のお公家さんが考え、旧13代加賀藩主 (金沢藩主)前田斉泰侯爵が賛同したものです。
(俗に前田侯爵の命名と言われていますが、前田侯爵は賛同して、今も靖国神社に残る能舞台に「能楽」と揮毫し掲額したものです。)
加賀藩藩主の入国能
加賀藩では、“規式能”という藩主が家督相続と初入国を祝って“能”を催す先例があり、4代光高公から1日ないし2日で行われていましたが、5代藩主前田綱紀公の時は、城内の白洲の招いた町人にも赤飯を賜り、6代吉徳公の時から作法が整備され6日間にわたり挙行されています。7代宗辰公・9代重靖公の時も早世で行われず、文化年間の“規式能”は8代重煕公以来、延享5年(1784)から数えて60数年ぶりで挙行され、能好きの10代重教公の時は就任早々に宝暦の銀札騒動や3年後の宝暦に大火のため祝うような雰囲気でなく財政的にも余裕がなく、11代治脩公の時も財政難で実施されなかったが、12代斉広公は、二の丸御殿の落成を祝う意味を込めて挙行されたものと思われます。最も12代斉広公が無類の能好きだっことも有るかも知れませんが、御殿の完成祝いは、金沢城下は2日の休みを令し、「盆正月」の祭りが行なわれ、6回にわたる“規式能”では、造営に尽力した年寄以下藩士が観覧し、職人や町人など数千人を御白州で見物させ、“慰み能”では6,000人を招き、いずれも落成した二ノ丸御殿の能舞台で催され、後に斉広公治世における最大のイベントだったと伝えられています。 |
つづく
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金沢の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・「松雲公御夜話」等