【浅野川大橋→小橋】
金沢の金箔製造は、日本の9割以上とか99%といわれ、「黄金の国ジパング」における唯一の生産地です。そして、今や金沢の観光の拠点として知られる“ひがし茶屋街”では、箔屋さんが何軒もあり、“黄金のトイレ”や“プラチナ入り金箔を2万枚も貼った蔵”など、工夫を凝らし観光客を驚かせています。
近年、金沢の個性を表現する手段の一つとして金箔が売り込まれ金沢の知名度アップに活用され、“金沢といえば金箔”“金箔といえば金沢”が、かなり浸透していますが、それに乗ずるように、どのお店も工夫を凝らし大いに賑わっているようです。
商品も、従来からの素材としての金箔に留まらず、箔を使用した新商品が次々と開発され、装飾品や装身具、食品、さらに箔製造の副産物である“あぶらとり紙”などが観光客を誘い迷わせています。また、昨今の体験ブームから、お箸やブローチ、パネルなどの箔貼り体験が人気です。
それから“ひがし茶屋街”近くには「金沢市立安江金箔工芸館」があります。以前は金沢駅近くにあり、個人が私財を投じて建設し、後に市に寄付された全国でも珍しい金箔工芸館で、平成22年(2010)に、箔業の発祥の地であり、箔の店舗が集積するこの地に移転してきました。
施設は、企画展示室や常設展示室に箔技術の研究所が併設されたミュージアムで、施設は素晴らしいのですが、以前の金箔工芸館のように箔製品の販売や実演、体験コーナーが無く、民間圧迫からの対処なのでしょうが、観光というより、シ~ンとしていて、お勉強に行くところになっています。
金沢の金箔は、今や独占的なシェアーですが、戦前の昭和15年(1940)には、使用制限令や奢侈品等製造販売制限規則が施行され、箔の生産が出来なくなり、箔業は壊滅状態になりました。やがて戦争が終わり、金箔製造が復活すると京都では多く業者が転業していて、大きな箔打ち仕事は金沢にお鉢が廻ってきたということだったと聞きます。
さらに昭和25年(1950)、朝鮮戦争が特需景気となり、昭和36年(1961)には親鸞上人大遠忌で箔の需要が増加したそうです。当時の金箔の需要は仏壇製造や仏具などで、素材としての金箔製造が主なものだったそうです。
≪話は唐突に・・・。金箔の話ではなく、金沢と金のお話で~す。≫
むかし、むか~し、4万年以上も前、小立野台を蛇行して流れる浅野川と犀川は一つの川だったそうです。やがて海が沈下し、傾斜が急になり、小立野台が侵食され、河岸段丘がつくられたとき、川の上流の片麻岩に含有する“金”が大量に段丘に沈殿したといいます。
砂金が一番多く沈殿した地域は、現在の兼六園、金沢城だったといわれていて、15世紀頃、今の金沢城の辺りでは、露天掘りで砂金が採集されたと伝えられています。砂金は当時、金屋という技術集団がいて、砂金目当てに今の尾山神社の所に集まり住み着いたといいます。
(金屋町跡現尾山神社・金屏風風の装飾、金箔で出来ないのでしょうか?)
そこは金屋達が住み着いたことから金屋町といい、付近の堤では砂金を洗ったと伝えられています。そこは藩政期になると金沢城の出城になり、やがて金谷御殿に、金屋町は森下町の先へ、“堤”は現在の堤町へ移ったといわれています。また、金屋たちは早くから一向宗の蓮如に帰依し、砂金を本願寺に志納したといわれています。
はい、金沢と砂金のお話でした。
金箔と金沢の歴史は、またいつか書きます。