【長町・大和町・東山】
長町研修塾は、いつもお客様と長町の武家屋敷巡りで露地を見せて戴いていますが、先日、“何時かお茶会を”という思いが叶い、ガイド仲間と情報交換や経験談などを肴にお茶会とお食事会を行ないました。お座敷から障子を開けると、ひんやりと一足早い冬寒が身にしみましたが、露地の品よく配された樹木は、色も形もバランスが良く、紅葉が目に心地よく映りました。
この素敵な露地の長町研修塾は、平成8年(1996)に開校した金沢職人大学校の1期生が修了記念に、平成10年(1998)9月から平成11年(1999)3月にかけて金沢職人大学校の修復技術の総合学習として長町武家屋敷群の修景に合わせ修復されました。
母屋の建物は、江戸時代末期とか明治初期に建てられた建物といわれていますが、その後、増築・改築を重ね今に至ったものだそうです。建物の後ろにある茶室匠心庵は母屋の修復と平行して大学校で3年間学んだ集大成として建てられたものだそうです。
金沢職人大学校は、木造建築伝統技術の保全・継承と、熟練技術者の育成を目的に設立されたもので、当時の金沢市長の山出保氏が中心となり、9つの組合の皆様が協議を重ね、文化庁をなどの協力を得て開校の漕ぎ着けたもので、全国で初て訓練校でも専門学校でもなく、市出資による無制度の学校です。
(9つの組合は、大工、建具、畳、左官、瓦、板金、造園、石工、表具)
その設立の経緯は、山出保氏の「金沢の気骨」に詳しく書かれています。切っ掛けは山出氏の気づきと危機感でした。その頃すでに、金沢には宮大工がいても高齢で、当時知り合いの80歳過ぎの棟梁に聞くと「なんとかせんといかん」ということだったそうです。
その棟梁が毎日、山出宅に朝早くから訪れてきて、いろいろ熱心に提案するので、山出氏も真剣になり、「職人大学校をつろう」と腹を固めたという話が書かれています。今に思えば、山出氏の気づきがなければ、金沢に残る伝統的で高度な職人技の伝承や人材の育成が途切れてしまっていた、といっても過言ではないように思います。興味のある方はご一読を・・・。
職人というのはいくら腕を磨いても仕事があって初めて伝えられるもの、幸い金沢は、戦災に遭っていないこともあり昔の建物の修復や金沢らしいとされる景観などから、職人仕事も求められ金沢職人大学校の修了者達が、神社、仏閣の修理や歴史的建造物の復元、茶室の移転、さらには、金沢城の復元、町家の再生などは、彼等の技と腕が欠かせなくなっています。
身近なところでは、私達が観光ガイドの拠点として使わせて戴いている「ひがし茶屋街休憩館」も彼等の仕事で、大工仕事では木象嵌や釘を使わず柱を繋ぐ技術を駆使し、畳は今では皆無の床から手縫いで手間をかけた仕事で修復されています。
金沢職人大学校
www.k-syokudai.jp/