【浅野川下流大野川河口】
古い町並みの大野は、近年、金沢新港が整備され大野川の右岸の大野町新町には石油基地が日本海に面した一角に小松製作所の金沢工場が建設され産業機械を直接世界各地へ輸出できるようになりました。
古代から大野湊として知られた大野は、漁業と藩政初期からの醤油醸造そして海運業(北前船)で栄えました。醤油は五大生産地の一つに数えられた“醤油のふるさと”で、今も20数軒の蔵が「大野醤油」として醸造され、味は蔵それぞれ、小さな蔵の職人が造るこだわりの醤油が造られています。
北前船で栄えた土地ならではの“進取の気性”と古い町並みを大切にする“郷土愛”が相まって、多くの町が失ってしまった町ぐるみの一体感は、今も住民の“まつり”や“まちづくり”に積極的に関わっている姿から伝わってきます。
町立ては、安政3年(1856)11月に宮腰町奉行の支配下で大野町になります。藩政期は、隣接している宮腰(現在の金石地区)とともに北前船の寄港地で繁栄しますが、大野の港にも外港機能がありながら、大野町と宮腰町の間で利害が対立することから、争いが絶えず、この状況を見兼ねた加賀藩は、幕末慶応2年(1866)宮腰町と大野町を地域として融合させようと合併させられました。
新しい町名として「固いこと金石(きんせき)の交わり(固い約束の意味)」から金石(かないわ)を町名として採用され、宮腰地域が金石町本町、大野地域が金石町庄町となりました。(明治の入り上金石町、下金石町となります。)
(大野の町並み)
(下金石町(金石町庄町)となった大野町は一般的には大野町で通用することが多く、金石という名称は上金石町(宮腰)として認知されるようになり、大野町は様々な不都合が生じることから、当時の石川県庁や明治政府に町名変更を請願し、明治31年(1898)3月12日に下金石町が大野町に改称されることになりました。)
大野醤油の歴史は、3代藩主前田利常公の命で元和年間(1615~1624)。大野の町人直江屋伊兵衛が醤油発祥の地紀州湯浅で醸造法を学び、伝えたことに始まります。その後、金沢の城下形成と人口増加に合わせて醤油生産は根づき、文化年間(1804~1818)には北前船によって能登から北海道へも出荷されるようになり、弘化・嘉永年間(1844~1854)になると、加賀藩の保護を受けたこともあり、醤油醸造業者の数は60軒以上もあったといいます。
藩政末期の町並みは、建物の殆どが板葺き屋根で、伝統的な様式の町家は大型の建物が多く、醤油醸造業者や廻船問屋や船主の大きな建物が軒連ねていたそうです。今も昔ながらの木虫籠組の町家や古い醤油蔵がいくつか残り、屋根は瓦に葺き替えいるものの当時の繁栄を今に伝えています。
(因みに有名なお寿司屋さんは回船問屋の建物を改修したものだと聞きます。)
現在、大野は、伝統的な町家が素敵に改修され点在し、見学が出来るところもあります。一方、大野大橋からは雄大な日本海が、大野川には漁船が、そして、遠くに白山連峰が一望できる景観がすばらしく、また、金沢港には豪華客船が時々寄航します。
大野らしさが味わえるものとしては、店として改装された醤油蔵で醤油製品の試食や醤油ソフトクリームを楽しむことができます。
また、平成8年(1996)開館した「石川県金沢港大野からくり記念館」は、大野町が、県に働き掛けオープンに漕ぎ着けてもので、幕末に大野に移り住み加賀藩のレオナルド・ダビンチといわれた大野弁吉の作品と功績が紹介されています。