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明治維新と金沢②武士から士族へ

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【金沢市】
廃藩置県により、明治4年(1871)7月14日金沢藩が終わり、8月12日、15代藩主前田慶寧公は東京へ去ります。翌月新政府より薩摩出身の内田政風が金沢県大参事として県政に当り、県庁も金沢ではなく、金沢県の県土の真ん中という建前から能美郡と石川郡の郡境手取川河口の本吉に、能美の「美」と石川の「川」を充て美川と改名し県庁が設置されました。



(石川門①)


(版籍奉還から2年後の明治4年(1871)7月14日(1871年8月29日)に、廃藩置県が施行されました。主な目的は年貢を新政府で取まとめ、中央集権を確立して国家財政の安定を図ること。全国34万人(武士階級全体で200万人)の藩士の大量解雇。全国の徴兵権・徴税権を中央に集中させ、各府県へは官僚(府知事・県令)を派遣し,中央集権体制の土台とし、それにより、幕府から引き継いだ政府直轄領860万石では何にも出来なかった新政府は、他の2140万石の徴税権を藩から取上げ徴税権は国に移しました。廃藩された藩は261藩。生まれた府県は最初3府302県。明治4年(1871)末までに統廃合を行い3府72県に、現在の都道府県は、1都1道2府43県、総数は「47都道府県」です。)


(石川門②)


新政府にとって加賀百万石の金沢は面倒なところで、士族・卒族が残り、かって対立した薩長に対しての不満を抱くものも多く、さらには士族・卒族は禄を削られ、それらの不満爆発を避けるため美川に県庁を設置したといわれています。



明治4年(1871)12月18日には、士族・卒族であっても官職のないものは、農工商を営むことが許され、身分制度の崩壊が進みはじめています。「武士の家計簿」では、金沢の猪山直之が東京の息子成之に送った手紙に特権が失われていく武士の様子が書かれているので引用します。




明治5年(1872)春の書簡では、犀川の河原相撲で見物客の荷物を預かる雑役夫に士族がいるのを見ます。夏には犀川橋詰めで唐キビやドジョウの蒲焼を焼いている士族に出くわし、その頃はまだ家禄が支給されていましたが、食べていけず、まだ特権を奪われる前というのに自分から庶民になり下がっていると嘆いています。



(黒門前緑地・猪山家が代々勤めた御算用場跡)


さらに秋、士族は町人や卒族からも町で無視されます。藩政期、猪山家でも叶わなかった乗馬で町を通行出来る上級武士だけの特権が、前年、平民も乗馬を許可されたことから、直之は、乗馬の平民に押し退けられて、面白くなくて「文明開化とは左様の事を申す候や、と存ずること也」と嘆く・・・。




禄高は低かったとはいえ、幕末、藩主の側近で、廃藩置県後は非役ですが、版籍奉還後、華族前田家の家令として前田家東京邸の最高位の待遇を受けた猪山直之の心を、大いに傷つけたのは、県庁の官吏による無視であったといいます。前田家が藩知事だったころは、非役で役所に出なくても天下国家や藩の政事を担う一員であるという意識が強かったが、今は県庁の役人に相手にされないことから「最早、我等如きは日雇稼も同断」と書き、いじけています。


(五十間長屋と橋爪門)


この様に、維新は藩が崩壊するとともに、藩政期の秩序、身分、文化も、武士であることの特権もプライドもアッという間に崩れ”武士は食わねど高楊枝”という皮肉か誉め言葉か分かりませんが、現実、楊枝など暢気にくわえて居れなくなったのは確かです。




その頃、藩政期ソロバン侍と蔑まれていた猪山家は、藩の崩壊後、そのソロバンが新しい時代に重宝され、息子成之は東京勤務の海軍主計官で超高給取りに、由緒や家柄だけで生きてきた同格の藩士とは年収30倍という大きな差をつけるようになっていました。



明治5年(1872)の段階では、まだ家禄が支給されていましたが、金札で支給されています。金札1両が約6割に落ち込み、米も諸物価に比べ暴落します。しかし野菜魚類、大工の工賃や日雇い賃金は変らないのに米価だけ下がり、やがて米価は4割に下がり、諸物価はそのまま、士族の実質収入は4割になり、直之は「士族は、いずれも口説かぬ(嘆かぬ)者はない」と語り「何の役に立たない士族に家禄を遣わすのは、費えのように思い、いくら士族が難渋するもお上(政府)は頓着なしと察しられる」と記しています。




今日では意外に思われますが、戸惑っていることに、明治6年(1873)の太陽暦の採用があります。旧暦の暦が行動の指針でもあった直之は「今、一両年の内には、まるでヨウロッパ同様に相なるべく候。定めてお上(政府)は華士族も廃し、四民同体となし、米屋を廃し、麦作のみにてパンを喰わし、官員に限らず筒ダンを着せたき思し召し」と書き、士族廃しの噂に、少し勘違いをしながらも動揺し覚悟もしています。・・・詳しくは「武士の家計簿」をお勧めします。




明治9年(1876)8月、全華士族に対して家禄に応じて金禄公債が交付され、徳川300年の及ぶ家禄が廃止されました。秩禄処分です。秩禄とは、家禄と維新功労者に対してあたえられた賞典禄を合わせた呼称で、以後金沢では、さらに士族の生活が苦しくなっていき、人口は減少し、町そのものが没落していきます。




(復活の兆しは、明治31年(1899)の北陸本線の開通と軍隊の増強まで待たねばなりません。そのような現象から町の成立の根底は、百万石というイメージや看板や精神論だけでなく、ここに住む人々の利害の共有抜きにはありえないことを教えられます。)



≪秩禄処分≫

金禄公債の起債の年は、明治10年(1877)。公債を受け取る士族は、全国で34万余人、公債発行額は1億7,000万円余(3兆4,000億円(1円を現在の2万円として))で、5年据置き後30年内に償還することに定められていました。1人平均600円弱(1200万円)です。金沢藩では1万4800人余り、大聖寺藩を含めても1万6000余人がこの処分を受けました。3分の2の1万人は下士層で、彼等の公債による利子収入は日収に換算すると8銭(1,600円)ほどにしかならない状態でした。


旧家禄でいうと百石取り前後の中士層でも、同様に日収20銭(4,000円)がやっとで、この層まで含めると全体の九割以上、1万5000人がこうした待遇で、当時の土方人足の日給が平均25銭(5,000円)ぐらいでしたので、大半の士族はそれ以下の収入水準に突き落とされてしまいました。しかし6年間で廃止した武士のこの秩禄は、それでも当時の国家予算の30数%にのぼったといいます。



参考文献:武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新磯田道史著 発行所株式会社新潮社 2003年4月10日発行ほか


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