【金沢・兼六園】
今の時雨亭は、平成12年(2000)に長谷池のそばに建てられたもので、吉徳公の時代の平面図にあるのは、8畳と10畳の座敷2間に、1畳台目の「御囲」と呼ばれる小さな茶室があり、控えの間4室と勝手の間で、およそ64坪(約210平方メートル)の建坪ですが、復元された今の時雨亭は、庭側の8畳と10畳、そして御囲(茶室)は当時の平面図にあるものです。
他の部屋は、お茶会や休憩に使いやすいように新たに造られています。全て当時の時雨亭をそのまま復元する案もあったといわれていますが、今の設えは、旅行者にとっても、あまり気を張らずに、和室でしみじみ茶を喫し、落ち着けて、自分を振り返り、日本の美を、そして金沢の歴史も共有出来る素敵な空間になっています。
時雨亭は、はじめ5代藩主前田綱紀公によって、延宝4年(1676)に今の噴水前に建てられたかなりの規模の建物で、台所もあったと思われる「蓮池之上御屋敷」と1町ばかり離れたところに数奇屋の御亭があったといわれています。元禄9年(1696)には、当時、二の丸御殿が造営中ということから綱紀公が居住し政務を執ったので家臣から「蓮池之上御殿」と呼ばれていたそうです。
(今の時雨亭)
「蓮池之上・・・」という表現は、蓮池庭成立の初期「蓮地の高」あるいは「蓮池の上」の名を付けて呼ばれていたといいます。兼六園の城の近くに位置する蓮池庭は蓮池堀(百間堀)より上段の台地であったことから「高」とか「上」を付けて呼ばれていたそうです。余談ですが、綱紀公が、蓮池を「はすいけ」と呼んでいたことを示す親翰があるそうです。
(この前に蓮池之上御殿がありました。当時は噴水はなし)
その後、「蓮池上御亭」とか「蓮池御亭」と呼ばれ50年間存続し、享保10年(1725)6代藩主吉徳公の時代に取り壊され、規模を小さくして建て替えられ「高の亭」「時雨亭」と呼ばれ、明治の初めまで約150年、補修をしながら存続したといわれています。
明治の初め、金沢理化学校として使用されたらしく、昭和の時代には、今、「時雨亭跡」と書かれた立札が「理化学校跡」と書かれていました。“学校”という何か場違いな感じがしていたのを思い出します。兼六園は、このように同じ場所なのに名前が幾つも有るところがあり、時代の変遷を伝えてくれます。
昭和の中頃まで、今の時雨亭の場所に、県立図書館があり、私が通い始めたのは小学校3・4年頃、当時はどんよりと暗い長谷池が見える児童用の図書室へ、本を読む習慣もなく、当時、無料で入園できた兼六園を走り回った後に一休みに寄っていました。それが、中学から高校まで続きますが、暇つぶしと悪童のたまり場で、本をじっくり読んだ記憶がありません。
(芝生の辺りは児童公園でした。)
お隣の庭は、児童公園でした。小学校の頃はブランコに滑り台。中学からは、やる事から逃げまくって、猿の檻を飽きても眺め、友と群れて藤棚の下で誰を待つわけでもなく、場所を独占して日がな一日ぼんやりと戯言をいって過ごしていたのが思い出されます。
(真ん中の木の後辺りに猿の檻が・・・)
今は散歩コースで、年に250日以上はブラつきます。いずれにしても、兼六園は、今も昔も・・・、オイて尚コイをオイ、通い詰め、降られ振られて、これからも、歩ける限り・・・飽きることなく・・・。
(兼六園の池のコイ)
参考文献:「兼六園を読み解く―その歴史と利用―」長山直冶著 桂書房、2006発行ほか