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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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三構橋から木揚場まで≪鞍月用水⑦≫

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【芳斉町→中橋町】
三構橋から歩道が左岸に変わり、勝尾橋まで右岸の家々の私設の橋が5橋、勝尾橋より昭和通りまで7橋もあり、どれが道路に繫がる橋かよく分かりませんが、資料によると公のものと思われる橋は”六枚二の橋””六枚一の橋“とあります。



(勝尾橋)

(勝尾橋より下流の私橋)


勝尾橋は、昔の勝尾町にあり、人持組の加賀藩士勝尾左近の屋敷があったことによります。昭和40.9.1に昭和町、芳斉2丁目、古地図参照


(安政年間の古地図・左下に勝尾家がある)

今の鞍月用水は、昭和通りの脇にある鞍月用水水門管理棟から二筋に分かれ、金沢駅方面に向かい鞍月方面へ。この金沢駅方向への流れの多くは北陸自動車道辺りまで暗渠になっています。もう一方の中橋町方向の流れは、下の大隅橋付近で大野庄用水と合流し旧古道木揚場に向かいます。



(今の鞍月用水と大野庄用水)



(昭和通りまで)

(鞍月用水水門管理棟・この後私橋が続き志んかわ橋、古道橋と続く)


藩政期には、今の六枚町交差点辺りに「折違橋(すじかいばし)」があり、道路が曲がっていたので橋を”すじかい(斜め)“に架かっていたので折違橋と呼ばれ、その辺りの町の名前も、始め折違橋町といい後に折違町としました。現在ある折違橋は、場所も違い昭和53年(1983)に大隅橋の上流の橋として架けられたもので、昔の”折違橋町”に由緒する橋とは別のものです。



(志んかわ橋から暗渠になり開渠なったところ)



(折違町跡の石碑)



(今の折違橋(すじちがいはし))

(大隅橋)


JRの高架下辺り、大隅橋を過ぎると「大野庄用水」と合流し、水嵩が増え「旧 古道木揚場」へ、ここは今の金石港が“宮腰港”と言われた頃、港に揚がった主に木材などの荷は「木曳川」を舟で上ってきて、ここで陸揚げし安江木町に運ばれたと聞きます。



(明治はじめの地図・鞍月用水と大野庄用水が繋がっていないのでは?)


(古地図や明治以後の図に、鞍月用水が大野用水と合流していないものもありますが・・・?)



(今の木揚場)

(深川橋)


旧古道木揚場の上(かみ)の「深川橋」からまた二筋も分かれ、合流した「大野庄用水」とともに、その下(しも)から「樋俣用水」と「木曳川」という名前に変わって流れていきます。



(深川橋より二筋の分かれる猪俣用水と木曳川)


(大隈町は、加賀八家の長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、“あら屋敷”とか“新家中”と呼ばれていたところですが、明治2年町名となり、昭和41.9.1に中橋町に、町名は宮腰往還を横切る3本の用水に、三つの橋が架けられその中央の橋を中橋と呼んだことから、中橋町としたと聞きます。)


参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行他


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