【長町、高岡町界わい】
金沢の古地図に嵌っています。最近、私が提案する散策会のほとんどが金沢市で発行された「金沢古地図めぐり」のパンフレットを片手に行なっています。どうも私は、楽天的な性格で自分が楽しければ、人も楽しいと思う独りよがりになる癖があり、お客様には押し付けているのではと思いながらも暫くは止まりそうになさそうです。
散策会は、年配の人が多いので、この古地図は字が小さいのがたまに疵ですが、家屋敷の苗字は分かりやすい楷書で書かれているため目が良ければ何方でも分かります。しかしそのままでは見にくいのは否めませんので少人数の時、予算がある時ですが拡大コピーをします。何時もは、拡大レンズを一つ持参し、ガイドの挨拶で、お貸しすると声を掛けます。でも、今まで笑いが起こるだけで、誰も名乗り出ませんがお互いの緊張感をほぐすのに役立っています。
毎回、参加者が違うので同じコース、同じ解説でもいいのですが、私には堂々巡りのように思え、その都度、自分なりの拘りからコースや話のネタを変えたりします。趣味的ですが何度か歩き調べ、一寸触りを人に話して本番に備えます。それでも一人よがりになりはしないかと思い、最近のニュースなど身近な話題や、話のオチなども考えてやりますが、何時も楽しんで戴けたかどうか気になり、やる度に反省しきりです。
その日は、長町武家屋敷休憩館をスタートし大野庄用水沿いを歩き、足軽資料館から鞍月用水に出て、四ッ屋橋を渡り、高岡町から上へ、右衛門橋を渡り川沿いから長町の大屋家の通りを経て大野庄用水へ、御荷川橋から木倉町の金沢学生のまち市民交流館を横切り中央通りの「芭蕉の辻」まできっちり2時間の散策でした。
(青地家跡辺り)
(昔「よもんどの橋」今「えもん橋」)
(小堀家跡)
今回の拘りは、今まであまり語られなかった長町や高岡町に書かれている家名のことやその界わいに伝わる伝説で興味を持って戴けそうな話を探して話してみました。まだまだ、こなれていないので、今のところ喜んで戴けたかどうかは分かりませんが、表現や話の組立て次第では印象に残る話になりそうな手ごたえを感じました。
(長家の屋敷正面辺り)
あまり知られていない話の幾つかを紹介をします。(私のメモだけでも、まだまだ・・・。)
≪鬼川(現大野庄用水)の喧嘩≫
寛永8年(1631)6月下旬の夕刻、高岡町の前田直之(お松の方の孫)が大勢のものと水遊びの帰り、鬼川の橋(現長町四の橋)辺りで2人の若侍とすれ違ったとき、刀の鞘が当たり喧嘩になり、直之の家来が大勢で2人を討ったことから、若侍の父村瀬九右衛門がおっとり刀で駆けつけ数人を斬ったが討たれ、もう1人の父坂野次郎兵衛も駆けつけたがすでに遅く、寺で髪を剃り、上方へ去ったといいます。直之にはお咎めなしとなるが、以後「仇討ち」を気づかい、後々まで油断しなかったと伝えられています。
≪竹田掃部屋敷跡(現聖霊病院)辺り≫
村井家の家臣大橋の子が横山家の竹田氏の養子に入り、寛永5年(1628)12歳の時3代藩主利常公の奥小将に召しだされ、寵臣となり人持組3,530石になりますが、利常公の死に際し43歳で殉死します。しかし竹田家は明治まで代々その録高が与えられました。また禁門の変では、慶寧公の侍読で尊王攘夷派の学者千秋順之助がこの屋敷で、元治元年10月18日切腹の命を受け、しつらえられた部屋で50歳の生涯を終えてと伝えられています。
右隣りの浅香家は3,750石。現在の足軽資料館は藤掛家、その隣青地家は、本性が本多氏で本多家の初代政重が、直江兼続の養子のなった時に生まれた男子の血筋だと伝えられています。それやこれやこの界わいには過去400年の伝説、伝承がどこを掘ってもあふれ出るように思われます。
≪四ッ屋橋の怪談≫
剣術使の八島某が夜中の2時頃、四ッ屋橋を通ったところ、母子2人で物を洗っていたので不思議に思っていたところ、子供がツカツカと寄ってきて、刀にさわり「虎徹」であるといって立ち去りました。翌日八島氏は、無名の刀を鑑定してもらったところ、紛れもなく「虎徹」であったといわれたとか。
≪今枝家屋敷跡≫
今枝家は加賀八家に次ぐ人持組筆頭として代々14,000石を領しました。慶長17年(1612)高岡町に邸地を与えられ幕末に及んでいます。藩主光高公、綱紀公、吉徳公の傅役(もりやく)を当主が務めた信任厚い家柄でした。残された絵図には北に面して3間4尺の表門があり、邸内には唐門、御纏部屋、火消道具入所や御白州、御縮所(牢屋)まで設けたれていたと伝えられています。明治15年(1882)頃、この旧宅はフランス語学校になり、明治のジャーナリスト三宅雪嶺が12歳でここに学び、庭の背が立たぬほどの大きな池がありそこで泳いだことを書いていますが、その後、女子の高等小学校や、第一高等女学校など幾つかの女学校の発祥の地になっています。
≪近藤忠之丞の仇討ち≫
天保9年(1838)5月13日の朝、高岡町の小堀家辺り(今枝家付近)で、足軽の近藤忠之丞が藩士山本孫次郎36歳を討ちます。忠之丞の父忠大夫は河北郡蚊爪村の百姓から武家奉公で、足軽株を買って多賀家(5000石)に仕え、さらに藤田家(2000石)の士分になっていましたが、貸金のことから天保4年(1833)12月29日夜無礼討ちにあいました。その子の忠之丞は江戸に出て剣を学び、目的を果たし飛騨越えで江戸に逃げたといいます。この事件は瓦版も出て町中で大評判になったといわれています。
(この界わいは、藩政期1万石以上の4家を始め人持組、平士の屋敷が連なり、金沢の観光拠点として兼六園に次いで有名になったところで、金沢らしい情景を今に残しています。周辺も含めれば伝説・伝承は知られているもの等、諸々多いので今は省きます。いつか・・・また。)
また、長町武家屋敷辺りでは、永年、観光ガイドや市民の方が、おもしろ可笑しく語っているうち伝説が伝説を生み、「このように言われている」という隠れ蓑に甘え、勘違いや間違って伝えられているものも幾つか目に付きます。今回はそれらのガイドネタを是正することも兼ねてガイドをするように心がけました。
(かなり、私も勘違いや歳からくる健忘症で間違ったことをいうこともありますが、今回は金沢の歴史に詳しい知人が同行していて、その人に直して戴き、頭を下げながらのガイドでした。)
例えば、
1、 馬繋ぎ石(がっぱ石)は鏑木商舗前のもをいい、大屋家の前の角の石(2ヶ)も馬繋ぎ石といわれていますが、この二つは進入する車両が家の屋根瓦や塀の瓦を壊さないように近年置かれたもので、昔の馬繋ぎ石と似て非なるものです。このような石は市内の町角にはかなりあり、お蔭で、運転の下手な私も車の修繕費をかなり支払いました。
(瓦屋根を守るための石)
2、 安政年間の古地図にある、大屋家のところの「跡地」は大屋家が藩から拝領する前に住んでいた藩士「跡地義平(200石)」の屋敷を示すもので、空地(明地)のことでは有りません。等々
(金沢古地図めぐりのパンフ)
参考資料:「金沢古地図めぐり」金沢市発行・元観光ボランティア「まいどさん」会員奥野堅太郎氏の集めた資料など