心やさしい“金沢言葉”①
【金沢市内】 今はあまり聞かなくなった主に女性が話す“金沢言葉”の本質は、「優しい人間関係」「信頼の相づち」「えん曲な物言い」だという学者がいます。いうまでもなく“金沢言葉”は、何時ごろから話されてきたのかは定かではありませんが、おそらく一向一揆より、ずう~と以前か・・・?根強く生き残った言葉のようです。 (金沢城石川門)...
View Articleお・も・て・な・し!!“金沢言葉”②
【金沢市内】 金沢言葉には、単に市民同士がコミニュケーションを図るため、感情を直接表する言葉、例えば「だらま」や「ちごがいネ(ヤ)」「いじくらしいがいネ(ヤ)」「どんながやいネ(ヤ)」など、いわゆる金沢弁といわれる言葉と、もう一つ金沢の文化遺産ともいえる、ゆったりしておっとりとした会話や対話を楽しむような美しい言葉があります。...
View Articleまたまた、長町古地図めぐり
【長町、高岡町界わい】 金沢の古地図に嵌っています。最近、私が提案する散策会のほとんどが金沢市で発行された「金沢古地図めぐり」のパンフレットを片手に行なっています。どうも私は、楽天的な性格で自分が楽しければ、人も楽しいと思う独りよがりになる癖があり、お客様には押し付けているのではと思いながらも暫くは止まりそうになさそうです。 (長町の大屋家)...
View Article頑張りまっし”金沢言葉“③
【金沢市内】 先日、あまり見ることもない娘が残していった本箱から「頑張りまっし金沢ことば」という本を妻が見つけてきました。何とタイミングがいいのでしょう!!この間から金沢言葉が気になりだしていて調べていた矢先です。 (土塀の長町から北国新聞社)...
View Article金沢市老舗記念館① ― 今
【長町武家屋敷界わい】 金沢市老舗記念館は、昭和62年(1987)まで南町にあった藩政期からの薬種商中屋薬舗の建物を金沢市が中屋家から寄付を受け移築し復元した施設です。伝統的町民文化の展示場として平成元年(1989)4月1日に開館しました。当初は無料で長町武家屋敷界わいの観光拠点として大いに賑わい年間10数万人の入場者を集めていました。 (金沢市老舗記念館)...
View Article梅雨入りを吹っ飛ばした「百万石まつり」
【金沢駅→金沢城】 金沢の「百万石まつり」大名行列は毎年、藩祖前田利家公が6月14日(旧暦4月28日)の金沢入城という史実を意識しながら行なわれてきた“お祭り”ですが、ある年から、観光客にも楽しんで戴こうと6月14日に近い土曜日に実施することになりました。その頃は梅雨の盛りとあって雨天の日が多く、平成19年(2007)から梅雨の影響を避けるため6月の第1土曜日に開催されるようになりました。...
View Article金沢市老舗記念館② ― 今昔
【長町武家屋敷界わい】 金沢市老舗記念館に、金沢の観光施設では珍しいフランス語版のパンフレットがあります。当然、私にはフランス語が読める分けではないので、教えて戴いて気付いたのですが、こちらは、あの「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に1つ星に選ばれていて、その事を地元の観光ガイドでありながらすっかり忘れていまいした。 (金沢市老舗記念館店頭より長町界わい)...
View Article金沢市老舗記念館③―中屋薬舗
【金沢市内】 前回も少し触れましたが、中屋家の祖先は山城の国(近江の国とも)の人で、伊東彦右衛門といい近江源氏の一族で、加賀に移り、病弱のため、現在も「昆元丹飴」として販売されている元となる家伝の漢方薬「昆元丹」を調合したと伝えられています。 (金沢行在所・現金沢湯涌創作の森)...
View Article金沢市老舗記念館⑤ ― 行在所
【金沢市南町】 明治天皇の金沢行在所は、はじめ兼六園の成巽閣を用いることになっていたそうですが、供奉官(ぐぶかん・お供)の旅宿を付近に得ることが不可能ということから、人家の多い町中の薬種商中屋彦十郎に居宅が選ばれ行在所の御用に充てるよう命じたところ、彦十郎は深く家門の慶びと即座に請けたといわれています。 (移築された中屋薬舗) (移築された中屋薬舗) (湯涌創作の森に移築され行在所の一部)...
View Article島田一郎①紀尾井町事件
【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】 紀尾井町事件は、明治11年(1878)5月14日朝。時の参議兼内務卿大久保利通(享年49歳)の出勤途上、紀尾井坂から赤坂御門に至る人通りの少ない物静かな街路で旧加賀藩士島田を含む6人が待ち伏せし大久保利通を暗殺したテロ事件です。 (島田等の本拠金沢・泉寺町の三光寺の現在)...
View Article島田一郎②6人の刺客
【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】 大久保利通暗殺から2ヶ月余り7月27日、島田等6人は大審院の臨時裁判所で取調べ全員斬罪の判決を受け、その日のうちにアミダ駕籠で市谷監獄に護送され首切り浅右衛門(山田浅右衛門)により執行されました。6人は同罪。その時、島田一郎31歳、長連豪26歳、杉本乙菊34歳、脇田巧一32歳、杉村文一22歳、浅井寿篤30歳はいずれも粛然と死につきます。 (金沢城石川門)...
View Article島田一郎④31歳の生涯その二
【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】 明治7年秋、金沢に帰った島田は杉村寛正や長谷川準也らと行を共にし、彼等の政治結社「忠告社」に加盟します。当時、杉村は県の権参事をやめて忠告社に専念していましたが、その他の幹部は県の要職に付き酒色に明け暮れしていたため島田とは反りが合わず感情的対立が生じます。 (忠告社の本拠があった野田寺町の大円寺) (寺町図と大円寺(忠告社の本拠地) (2代石川県令桐山純孝)...
View Article島田一郎⑤終焉とそれから
【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】 かくして明治11年(1878)7月27日午前11時半頃、6人の刺客は刑場の露と消え、遺体は東京在住の旧加賀藩士の猪山成之、杉山虎一等7人が連名で引き取り、夜7時頃、東京谷中天王寺の墓地に葬られました。国家の犯罪人ということで、なかなか墓地が見つからなかったと伝えられています。...
View Article久保家と野村家①橋立から長町へ
【長町・橋立町】 長町の武家屋敷跡野村伝兵衛家の建物は、今から70数年前に加賀の橋立から金沢の長町に移築されたもので、元々は藩政期大聖寺藩のお殿様を招くために建てられた建物だといわれています。 (橋立町の久保家跡・石垣は地元の深田石だと聞きました。) (橋立の久保家跡にある椎の木別荘)...
View Article久保家と野村家②橋立の久保彦兵衛
【加賀市橋立町】 久保家の初代とも5代ともいわれる彦兵衛は、文化9年(1812)46歳で病死した父彦兵衛の後を継ぎ、文政12年(1828)11月に十村格に命ぜられ、勝手方御用聞(特権的な御用商人)になります。もともと彦兵衛の高祖父の父孫兵衛以来、小餅屋といい代々船乗りでしたが、曽父彦六が寛政4年(1793)2月に三人扶持を下賜され御勝手方御用聞を勤めています。 (北前船の絵馬・北前船の里資料館)...
View Article久保家と野村家③長町の野村家
【金沢市長町1丁目】 藩政期、長町の野村家は、今の長町二の橋と三の橋の間にあり、今より3軒ほどお城側に広くて1000有余坪のお屋敷だったといいます。現在の野村家跡は、藩政期の古地図や当時の知行高の拝領地積から見ると小さく、分割される前の往時を偲ぶものとしては、土塀と庭そして代々大切にされてきた樹木などが残り今に伝えています。 (野村家の土塀)...
View Article長町野村家・建物の見どころ
【金沢・長町1丁目】 前回にも書きましたが、野村家の建物は橋立の久保家の一部「離れ御殿」を昭和16年(1941)に移築したものです。上段の間、謁見の間、武者隠し、控えの間、奥の間、仏間ですが材質、造作、仕上げ、建具、襖絵、欄間に至るまで、金に糸目をつけず贅を尽くしたもので、移築復元とはいえ貴重の文化遺産だといわれています。 (長町の野村家)...
View Article「義血侠血」は兼六園殺人事件?
【金沢・浅野川→兼六園】 金沢の三文豪といわれる泉鏡花ですが、近年、金沢への観光のお客様の幅が広くなり、三文豪といってもピンとこないのか聞き返されたり、鏡花のことを女性だと思っている人等など、お客様がご存知なければ話すこともないのですが、橋や滝の白糸像を見たり聞かれると、話したくなってしまいます。 (兼六園)...
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