【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
かくして明治11年(1878)7月27日午前11時半頃、6人の刺客は刑場の露と消え、遺体は東京在住の旧加賀藩士の猪山成之、杉山虎一等7人が連名で引き取り、夜7時頃、東京谷中天王寺の墓地に葬られました。国家の犯罪人ということで、なかなか墓地が見つからなかったと伝えられています。
(猪山成之は最近映画にもなった「武士の家計簿」の主人公で海軍主計大監。杉村虎一は、杉村文一の次兄で当時、司法省の出仕し、後に外交官に転じています。)
翌年12年(1879)秋、島田等の友人が発起人になり金を集めて、金沢市の野田山墓地に遺物を埋めて碑を建てます。時代は下り昭和2年(1927)には、谷中と野田山で2つの50年祭が開催されています。
陸義猶(くがよしなお)が書いたという「斬姦状」ですが、はじめに書くべきなのに、最後になってしまいました。ここで少し触れることにします。陸(くが)は、当時忠告社の副社長で、島田等の武力主義に反対していましたが、明治10年(1877)7月単身上京する前、島田や長に斬奸状を書き与えていました。上京後、島田等から何の連絡も無いので内心ほっとしていますが、気になっていたのか「彼ノ趣意書ハ火中スヘシ」と島田、長に書き送っています。
しかし、島田等は、暗殺の決意が変らないことを伝え、明治11年(1878)4月上旬に島田が陸(くが)のもとに来て、斬奸状の再稿を依頼することなり、陸(くが)は、やむを得ず了承し4月下旬、陸(くが)は友人の猪山成之方の書斎にこもり、数日かけて書いたものが現在に伝わる「斬姦状」で、以前に島田の与えたものをベースに、新しい時事問題を織り交ぜて修正したものだといいます。
「斬姦状」は、無地の和紙に墨で1万字がビッシリ書かれているらしく、原本は国立国会図書館憲政資料室に「三条文書」の1部として保存されているそうです。2通あり内容は同じで、誤字脱字が多く字もまずく、紙も墨も悪く、継ぎ足したところも有り、粗末なものではありますが、多分、新聞社などへ郵送のため急いで写しもののように思われます。しかし「斬姦状」には6人の署名の下に実印が捺してあることを聞けば彼等の真剣で真面目な人となりが窺えます。
内容は、前にも書きましたが島田が自ら草案したものではなく、島田等と思想的立場が違う陸(くが)の執筆ですので、島田等の思いとは微妙なギャップがあるようの思われます。また、1万字のカタカナまじりの長文で、スペースからも全文どころか、遠矢浩規著「利通暗殺」の引用も出来ませんので、「前文」と「本文」の斬姦状の簡単な概要と前文にある大久保利通(明治政府)の「5つの罪」の項目だけを列挙しますが、詳しく知れたい方は、是非、遠矢浩規著「利通暗殺」を一読戴くことをお奨めします。
(大正時代建立、陸の碑。建設者は当時の金沢の政界、財界の名士が名を連ねています。)
≪斬姦状≫
冒頭には「石川県士族島田一郎等天皇陛下の上奏し三千有余万の国民に告げる」と書き出し「現在の政治は天皇の御意思に出たものでもなければ、国民からの意見によったものでもなく、わずか数人の大官がやっているだけである。ところが彼等は、自分のことばかり考えて国家のことは考えていない」とし、最後には、「少数者の専制を改め、早く民会をつくって公議を入れて国家永久の安体をもたらさねばならない」と結んでいるそうです。
「前文」にある大久保利通(明治政府)の「5つの罪」の項目
1、一般からの意見を聞かずに政治を行い民権を圧迫している。
2、法令が漫然と公布されて国民は困っているのに役人はいばってばかりいる。
3、不急の土木工事ばかりして国費を無駄使いしている。
4、憂国の志士を退けて内乱を引き起こしている。
5、外交に失敗して国威を失墜している。
さらに「本文」では、前文より圧倒的な長文で、より詳細に論じられているらしい。
陸(くが)は、この「斬姦状」を書いて禁獄終身の判決が下り投獄されますが、明治19年(1886)特典をもって1等を減じられ10年の刑となり、明治22年(1889)満期出獄。出獄後は表舞台に出ることなく、前田候爵家の委嘱に応じて旧加賀藩の歴史編纂に従事します。また、明治40年(1907)から谷中の6人の墓地の改修に尽力し、死の前年大正4年(1915)まで遺族のため墓の面倒をみ続けたといいます。
島田等の凶行は、明治維新に加賀藩が“何もしなかった”ことに対して「加賀藩士ここにあり」の巧名を、斬姦状にも書かれているように、独裁者のレッテルを貼られた評判が悪い大久保暗殺に求めてものと思われます。多くの金沢士族にとっては凶行ではなく武功であり”加賀藩武士の最後戦い“であったということなのでしょう。
独裁者といわれた大久保は、さぞかし贅沢をしていたのだろうと思われますが、死後、借金が8,000円も残っていたといわれています。
(金額は、明治の初めの1円を仮に25,000円とみると、8,000円は2億円?)
葬儀にあたり国は大久保家へ勅使を遣わし、参議兼内務卿正三位の大久保に、右大臣正二位が贈られ、祭粢料5,000円が下賜され、家計が豊かでないことから特の30,000円を嫡子利和に賜りました。
実は、この事件が天皇親政のきっかけになったともいわれています。不世出といわれた明治天皇ではありますが、青年期に入られたばかりで王政復古といっても実際政治は薩長に一任され、当時は27歳になられていたのに大久保に任せっきりで、ご自身は乗馬に熱中していたといいます。
重臣がうち揃い天皇にお目にかかり「このさい是非、親政にしていただくよう」にお願いすると、少しもお怒りならず、その後は毎日内閣に出席され、つとめて各省にも足を運ぶようになったといいます。
参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など