【長町・橋立町】
長町の武家屋敷跡野村伝兵衛家の建物は、今から70数年前に加賀の橋立から金沢の長町に移築されたもので、元々は藩政期大聖寺藩のお殿様を招くために建てられた建物だといわれています。
(橋立の久保家跡にある椎の木別荘)
この建物は、北前船で財をなした傑商久保彦兵衛家の「離れ御殿」でしたが、先日、ほっと石川観光ボランティアの橋立町研修で、藩政期からの久保家の広大な屋敷跡を目にし、今まで聞き流していた久保家と野村家の経緯に興味がわき少し調べてみることにしました。
(久保家の明治以後の業績等)
武家屋敷跡野村伝兵衛家といえば、今では金沢観光の拠点の一つ長町武家屋敷を代表するお屋敷で、特にお庭が有名で、ミシュランガイドの2つ星にランクされています。庭も素敵ですが、建物も総桧つくりの贅を尽くしたもので、解体移築には、随所に緻密な細工が施され、高価な貴重品が使われていたため、長期間を要したと聞きます。
久保家由緒書のよると「天保十四年(1843)九月六日引渡仕候」とある事から今から171年前に建てられた大豪邸で、大聖寺藩の御用林から拝領した木材を使い、豪華で堅牢、精緻を極めた造作は、今でも古色を帯びず、そんなに前に建てられたとは思えないくらい尋常とはいえない建物で、度々復元建築と疑われるといわれています。
(橋立の北前船は、大聖寺藩の「お手船」として、藩の威光を借りますが、反面藩は北前船から受けた経済的恩恵は絶大のものだったそうです。いずれ北前船や橋立の船主邸について書きます。)
(野村家の門)
現在の野村伝兵衛家は、久保彦兵衛家の全てが移築されたものではなく、藩主を招いて接待した「離れ御殿」の部分で、縁側もふくむ上段、謁見の間、武者隠し、控えの間などで、内側に面した事務所や茶室不莫庵は、昭和16年(1941)の移築に際し増築されたものです。
(主家部分は、離れ御殿の倍以上の面積で、昭和16年(1941)に寺井町に移築されますが、平成12年(2000)から3年間にかけて大聖寺に移築復元され、梁を蘇らせたという事で「蘇梁館(そりょうかん)」と名付けられています。)
(つづく)
参考文献:島喜久次著「野村家跡地の移築現存する北前船々主久保彦兵衛旧邸「御殿」の由来について」石川郷土史学会々誌、他