【加賀市橋立町】
久保家の初代とも5代ともいわれる彦兵衛は、文化9年(1812)46歳で病死した父彦兵衛の後を継ぎ、文政12年(1828)11月に十村格に命ぜられ、勝手方御用聞(特権的な御用商人)になります。もともと彦兵衛の高祖父の父孫兵衛以来、小餅屋といい代々船乗りでしたが、曽父彦六が寛政4年(1793)2月に三人扶持を下賜され御勝手方御用聞を勤めています。
彦兵衛は天保4年(1833)正月に五人扶持を下賜され、さらに天保9年(1838)8月には藩の御用をしっかり勤めたことにより期限を切らずに居屋敷を拝領し、苗字が許され「久保」と名乗るようになりました。
藩政期から明治初期にかけて橋立と塩屋、瀬越の地区は北前船の三大基地でした。橋立の湊には西出・久保・酒谷・黒田・西谷らの船主が活躍していて、記録によると寛政8年(1796)には、橋立だけで船主42人、持ち船は100隻を超えていたといわれ、その中でも久保彦兵衛と西出孫左衛門は橋立の北前船主の双璧といわれていたそうです。
(北前船には、元々近江商人に雇われていた北陸の船乗りが、安永~天明の頃(1770~1780)から、特に橋立の船乗り達が自立して自分達の船で北海道や瀬戸内海に乗り出し、船主自体が商品を買い、それを売買する買積み廻船を行なっていたといいます。詳しくいずれ。)
久保彦兵衛は、弘化2年(1845)の大聖寺藩財政整理に元締め役を命ぜられ、自ら進んで金一万両(約10億円)の御用金を上納し、続いて塩屋・瀬越・橋立の多くの船主も上納。彦兵衛は、その功により百三十石を与えられます。(百三十石は約13百万円)
(大聖寺藩は元々7万石ですが、歴代藩主は、江戸城での待遇をよくするため、10万石の大名を願いで、文政4年(1821)幕府は10万石を認めますが、以後いっそう藩財政は、苦しくなり、後に廃藩置県が実施された明治4年(1871)には借財23万1787両(明治初期一両3万円として約70億円余りに達したといわれています。)
嘉永6年(1853)には黒船来航時、大聖寺藩の海防資金として久保彦兵衛は3千両(3億円)を上納し、廃藩置県に際して藩札の整理に5千両(約1億5千万円)を献上したといわれています。
(大聖寺藩でも海防資金を塩屋・瀬越・橋立の船主に要請、橋立では久保彦兵衛が3千両、西出孫左衛門が2千両、他の橋立の船主が3千2百両を上納しています。
(昔の船箪笥・北前船の里資料館)
しかし、明治20年代になると橋立の北前船も衰えていきます。原因として下記のようにいわれています。
① 電信の普及でぼろもうけが出来なくなります。
② 鉄道と汽船の発達で1年に何回でも往復が可能になります。
③ 農産物の変化により、鰊(にしん)カスを肥料にした煙草、菜種、藍、綿の生産が輸入品におされ衰えます。
④ 鰊(にしん)が北方に移動で収穫が減ったため、汽船に乗り換えたものと日露戦争以降北洋漁業に転進した大船主が残ります。
明治22(1889)の久保家は所持和船5隻(分家合算14隻)を有していたといいます。その頃になると久保家は八十四銀行、日本火災海上保険(久保、広海、西谷、大家、浜中)日魯漁業(久保、西出、平出)など時代に即した事業に乗り出します。
(橋立から日本海)
≪日本一の富豪村≫
大正5年(1916)東京博文館発行の月刊誌「生活」の記事に「北陸線大聖寺駅から一里半の海岸に日本一の富豪村がある、加賀国江沼郡橋立村である。この村は小塩と橋立の両大字に分かれて戸数は各150位ある。・・・中略・・・この村には50万円以上の資産家が軒を並べ、5万円以上の家に至っては村の大半を占めている。・・・中略・・・日露戦役の国債に同村西出孫左衛門氏が7万5千円、久保彦兵衛氏は7万円も応募した。西出氏は函館の有力者で八十四銀行取締役、大聖寺川水力電気会社専務取締役、7~80万の資産を有する。久保氏は大聖寺川水電社長、大阪肥料問屋として1~2の顔である。酒谷長兵衛、酒谷長一郎、泉藤三、増田又右衛門、久保彦助らが指を折れる。・・・中略・・・加賀の人は橋立を「金の三味」という。」と書かれているそうです。
(現在の物価は大正5年の6,300倍とすると50万円は約31億円)
(つづく)
参考文献:島喜久次著「野村家跡地の移築現存する北前船々主久保彦兵衛旧邸「御殿」の由来について」石川郷土史学会々誌、その他
特定非営利活動法人 加賀国際交流会 たぶんかネット加賀
http://tabunkanet.com/01-access/index.html
北前船の里資料館の資料や聞き書き、等々