【金沢市長町1丁目】
藩政期、長町の野村家は、今の長町二の橋と三の橋の間にあり、今より3軒ほどお城側に広くて1000有余坪のお屋敷だったといいます。現在の野村家跡は、藩政期の古地図や当時の知行高の拝領地積から見ると小さく、分割される前の往時を偲ぶものとしては、土塀と庭そして代々大切にされてきた樹木などが残り今に伝えています。
(野村家に限らず長町界隈は廃藩置県後、屋敷内がリンゴ畠などに、その後、士族の県外転住や窮乏などによる分筆、分譲で、先住の武家の由来由緒を知ることもすくなくなりましたが、最近、ご子孫が墓参で訪れることから夏になると、たまに我々観光ボランティアガイドに問い合わせがあります。)
(今も一本残る昔の小さい林檎)
●私等は子供の頃、食べたリンゴは、長野や青森のより少し小ぶりで甘すっぱい青リンゴでした。今では金沢でもあまり作っていないようです・・・。
幸い金沢は戦災に遭わず、道路や小路は藩政期の絵図そのままのところも多く、また、絵図には武士の家名が書かれていますし、玉川図書館の近世資料館には加賀藩士の「先祖由緒一類附帳」が保存されているのでその気になれば、調べることが可能です。
前置きが長くなりましたが、野村家は始祖野村伝兵衛信貞より前田家に仕え、連綿と明治3年(1870)に12代野村中務之禮に至り、その間分家も拡大し野村家の累系は七家になりました。総家の菩提寺は、大桜で有名な寺町の「松月寺」。分家七家には大乗寺、棟岳寺を檀家寺とするところもありますが、何れも伝兵衛が始祖で曹洞宗のお寺です。
始祖の伝兵衛信貞は、はじめ服部入道某といい、後に野村七郎五郎と称し朝倉義景に、前波播磨守長俊の下では野村七兵衛を名乗り、さらに明智光秀に700石で仕え、光秀滅亡後、天正11年(1584)越前府中に於いて前田利家公に臣事し、野村伝兵衛信貞と改めました。天正12年(1585)末森の戦役で功をあげ、禄1,000石に至りますが、天正18年武州八王子において戦没します。
由緒書によると総家の2代信清3代武貞は、七兵衛を名乗り3代は1,200石を拝領していますが、4代5代は1,000石、以後12代之禮まで800石を拝領しています。野村家代々の役職はおおむね馬廻組、同組頭に付くことが多く、藩主11代治脩公、12代斉広公、13代斉泰公にわたり一族の子女の御﨟職など加賀藩大奥に仕えています。(他説あり)
野村家は、朝倉家に仕える以前については、朝倉一乗谷が全て灰儘となり、今となれば推測でしかありませんが、新田氏が祖として足利尊氏に組したときの旗印「棕櫚(しゅろ)の葉」が家紋で、今も駿河浅間神社の神紋と同じだそうです。現在「棕櫚(しゅろ)の葉」を家紋しているところは野村家以外に使用しているところはないといわれています。
(つづく)
参考文献:島喜久次著「野村家の由緒について」石川郷土史学会々誌、その他