【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
明治7年秋、金沢に帰った島田は杉村寛正や長谷川準也らと行を共にし、彼等の政治結社「忠告社」に加盟します。当時、杉村は県の権参事をやめて忠告社に専念していましたが、その他の幹部は県の要職に付き酒色に明け暮れしていたため島田とは反りが合わず感情的対立が生じます。
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(忠告社の本拠があった野田寺町の大円寺)
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(寺町図と大円寺(忠告社の本拠地)
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(2代石川県令桐山純孝)
(忠告社は、当時、県内唯一無二の政党、全国的にも大政党で、さらに鹿児島人の県令内田政風が陰で助けたため、県や町の重要な職はほとんど忠告社員で占め、”忠告社に非ずんば人の非ず“の観があったといわれていますが、明治8年3月、内田政風が退官し、後任に忠告社と肌が合わない参事桐山純孝が昇格すると急速に衰退していきます。)
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(初代石川県令内田政風)
それでも島田は鹿児島の西郷に習い金沢にも私学校を作ろうと考え、杉村の出資を求めるが、杉村が冷淡な態度を取ったことから、ますますミゾが深まり、一派を率いて泉寺町の三光寺に本拠をかまえ、三光寺派と称して杉村らとは対立します。
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(三光寺派の本拠地)
(もともと杉本は島田の行動があまりにも急進的であるのを好まず、島田は杉村の地位におごっているのが不快だったようです。もつとも「言論派」と「武断派」は、互いに相容れないのは当然帰結でした。)
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三光寺派は、忠告社のように党規律を持つようなフォーマルな組織ではなく、島田とその同志の集合体であったが他派(常徳寺派、稲垣一派)も含め総勢400名で、その多くは警官で、紀尾井町事件の連累者はこの三光寺派から多く出ています。この派の性格は島田自ら表現するように、武断主義・腕力的行動主義であったいいます。
(紀尾井町事件のもう一人の首謀者長連豪と島田の出会いは明治7年頃の東京で、2人は5歳ぐらいの年齢差がありますが、長には島田から鹿児島の桐野利秋らと変らない意見を聞くに至り、急接近したものと思われます。長は再度鹿児島を訪れ金沢に帰るが、東京では島田と同志でありながら、鹿児島行きの面倒を忠告社の杉村や陸にみてもらっていたため、どちらか片方に組みすることを避けたのか、金沢では、どの派にも属さなかったといいます。)
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島田一郎が、東京へ向けて金沢を発ったのは、明治11年3月25日。島田は出発に際して、「左右 分からぬおさな 心せよ 今は親子の 別れなりけり」「かねてより 今日の日あるを 知りながら 今は別れと なるさかなしき」と詠み、野町の端より白山を見て、「我思ひ 積るも知らぬ 山の雪解け ゆく春をまつそかなしき」と詠んだといいます。
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東京への旅路は、江州海津で髭を剃り、吉村二郎と偽名して神戸に至り、湊川神社で生還せざるを誓い、海路をとって4月上旬、東京に着きます。島田は陸義猶に執筆してもらった斬奸状を所持していたが、上京の途中に取り調べられてはならぬと考え、東京に着く前に焼き捨てたといいます。
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東京での宿は長連豪が止宿していた林屋で、長とは5ヶ月振りの再会であったといいます。
(つづく)
参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など