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島田一郎③31年の生涯その一

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
島田一郎は、「先祖由緒并一類附帳」等によると、嘉永元年(1848)金沢生まれで幼名は助太郎。祖父久兵衛は持筒足軽の倅で島田家の養子に入った割場付足軽、父金助も養子で割場付足軽から横目、下屋敷下役などを歴任。両人とも株買いの養子であったといわれています。母は町人の出でしたが、嘉永3年に没したため、島田一郎は継母に育てられます。後に陸軍少佐になり、日露戦争で戦死した弟の島田冶三郎が家を継いだといわれています。


(妻ひら子は、後の小学校の教員になり、子の太郎は陸軍の入りに日清戦争に従軍しています。)



(金沢城石川門)


子供の頃から、意地っ張りで、金沢弁でいう“ヤンチャもん”だったらしく、友人とちょっとした言葉の争いから「糞でも食え」の売り言葉に「よし、食ってやる、ここに出せ!!」と真顔で迫り、あまりにヒツコイので、相手はしかたなく、路上の犬の糞を足げで差し出すと、それをつかんで一口でほお張り、度肝を抜かれたという話がありますが、真偽のほどは定かではありません。子供の頃から豪傑であったことは確かなようです。



(金沢城下)


剣術は、水野真法一伝流の藤岡親明に学び、片手抜きの技に優れていたと伝えられています。15歳で割場足軽御雇に、やがて洋式学校の壮猶館の稽古方手伝に、そこで銃砲術を修め、元治元年(1864)足軽並になり、第一次長州征伐に出陣し、慶応元年には京都に派兵されています。



明治元年(1868)の戊辰戦争では島田一郎20歳。加賀藩蓑輪知太夫隊の伍長島田助太郎として従軍し北越各地を転戦します。戦闘では負傷しますが、凱旋後の明治2年3月、功により御歩並に昇格、切り米30俵を受けます。この禄は、父の跡を継いだものではなく、自ら手に入れたもので、明治4年、廃藩置県で藩兵が廃止されるまでに準少尉(年給33俵)までに成り上がります。


(蓑輪知太夫隊は当時の小隊の倍くらいの人員103名と中隊規模で兵は66名。伍長は22名。島田一郎(助太郎)はその内の1人で、この時に共に戦った者の中には、後に同志となる者も多い。)



(三光派の拠点・泉寺町の三光寺)


軍人としてエリートコースを歩みだす島田一郎ですが、明治6年の征韓論が運命を変えることになります。征韓論に共鳴していた島田は西郷の下野に憤激し軍人として身を立てることを捨て、国事に奔走することになります。明治7年には、征台の役や佐賀の乱に関する建白を同志と共に提出する一方で、金沢に帰り「三光寺派」を組織しました。


(西南戦役が勃発すると、島田は”いよいよ本当に挙兵の時が来た“と喜ぶが、西郷シンパの金沢で1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は、戦況を傍観する態度で動かず、やがて政府は全国の兵を募ったのに乗じて島田は一計を考え、募兵に応じ九州に従軍し、折を見て反乱を起こし薩摩軍に協力しようとするが、人集めが叶わず万策尽きた島田は挙兵を放棄し、大官(大久保等)暗殺を決心したといいます。)



(稲垣義方)


後に、元同志で初代金沢市長になる稲垣義方が後に述べた島田評は「島田は武断派の典型で、お世辞も知らなければ、文筆も下手糞、そのかわり鉄石のような心と熱火のような情熱をもっていた。だから激高すると何をやらかすか分からない。けだし文に非ずして声にあり、言に非ずして魂にありとすべきか。」といっています。


(つづく)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行/「卯辰山と浅野川」平澤一著・活文堂印刷、平成5年8月発行など


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