【金沢市内】
前回も少し触れましたが、中屋家の祖先は山城の国(近江の国とも)の人で、伊東彦右衛門といい近江源氏の一族で、加賀に移り、病弱のため、現在も「昆元丹飴」として販売されている元となる家伝の漢方薬「昆元丹」を調合したと伝えられています。
金沢に出たのは2代目彦兵衛で、薬種商中屋となり加賀藩の藩祖前田利家公の知遇を受け、町方宿老(後の町年寄)の1人に選ばれ、藩命により金沢町の町政に関与し、明治まで受け継がれてきました。当時から町年寄に任命された10数家は今は跡形ものなく、中屋家だけが現在も創業時からの「昆元丹」を主力に暖簾が守られています。
ここで永い間、滋養強壮に効験あらたかといわれてきた「昆元丹」の話を書かなければならないのですが、400年以上も続く秘薬を、素人がグダグダ書くより、餅は餅屋、薬屋は中屋ですから、中屋彦十郎薬舗ホームページをご覧いただくことをお薦めします。
株式会社中屋彦十郎薬舗www.kanpoyaku-nakaya.com/
藩政期の中屋薬舗は南町の今の中屋三井ビルディングのところにありました。千石取りの武家に匹敵する五百十三坪(1,700㎡)が与えられています。維新後、明治11年(1878)、明治天皇の北陸御巡幸の行在所とし10月2日天皇を迎えるため,1ヶ月をかけて門や風呂場・便所などを新改築.天皇が使用する部屋(玉座)をはじめ,随員の部屋まで,それぞれ慎重に飾りつけられ、天皇をお迎えする一週間前には,家族は近くの持ち家に移り,店舗もほかの場所で臨時営業し、中屋家は「ほとんど完璧な行在所」になり、天皇側近からも高い評価を得たと伝えられています。
(南町の中屋薬舗の旧跡)
明治天皇の御巡幸は、明治5年近畿中国九州御巡幸から明治18年の山陽道御巡幸まで6回の御巡幸が行なわれていますが、第3回北陸・東海道御巡幸の明治11年8月30日~11月9日の72日間のうち、金沢には10月2日に南町中屋彦十郎家に到着し2泊3日滞在しています。
(明治11年当時、金沢にはもちろん汽車・電車・馬車もなく、街灯は巡幸に合わせて南町、石浦町に10数本を立て、ランプに火を灯したが暗くて何の役にも立たなかったそうです。)
北陸御巡幸は、明治11年(1878年)5月14日大久保利通が白昼公然と島田一良等のテロリストの襲撃を受けて惨殺された直後、天皇が地方官に対して「安心して治民につくせ」と勅語を与えたことに見られるように、未だに不安定な支配体制に対し明治政府が末端に連なる地方官吏の掌握と若い天皇の地方へのお披露目が狙いであったように思われます。
御行幸にあたって,旧藩主前田斉泰公が,数日前、わざわざ東京から金沢に駆けつけ,天皇を迎えて連日行在所に機嫌をうかがいに参上したといいます。おそらく,政府から内々の意を受けたものと思われますが、旧藩主が若き天皇の前で平伏する姿を,民衆に見せつけることで権威の交代を知らしめようとする明治政府の計算が見え隠れします。
また、御巡幸で、金沢の通信や道路などインフラ整備が進み、文明開化の大きな契機ともなり、時代が完全に変わったことを庶民の前に見せつけた効果は大きかったように思われます。
(明治11年(1878)10月2日当時、明治天皇は満25歳。元13代藩主斉泰公は、満67歳でした。)
(つづく)
参考文献:「加賀能登の家」田中善男編 昭和50年5月1日発行ほか
株式会社中屋彦十郎薬舗www.kanpoyaku-nakaya.com/