【金沢~北陸】
北陸御巡幸は、第3回北陸・東海道巡幸といわれるもので明治11年(1878)8月30日に東京を発ち、関東平野を北に横断して碓氷峠を越えて信濃路に入り、いったん柏崎の海辺に出て新潟、新発田まで北上し、反転して長岡を回って北陸道へ、日本海沿いの越後(新潟県)の西端に位置する親不知(おやしらず)を越えて越中(富山県)に入り、10月2日に金沢へ、敦賀に抜け琵琶湖湖畔を南下して草津経由で京都御所に向かい、東海道を経て最後に東京に戻ったのは11月9日、72日間の長旅だったと聞きます。
(行く先々では、国の末端に連なる区長、戸長、官吏、そして師範学校、医学校の教員と優等生、地方巡査、それから80歳以上の高齢者を1人1人表彰し、金品を与えています。)
御巡幸に従った随員は、前回にも触れましたが右大臣岩倉具視、筆頭参議大隈重信、参議兼工部郷井上馨の他、陸軍小輔大山巌、内務大書記官品川弥二郎、大警視川路利良・宮内大書記官香川敬三、宮内大書記官山岡鐵太郎(鐵舟)、二等侍補高崎正風、一等侍補兼議官佐々木高行、以下総勢798人(そのうち近衛兵75人)乗馬116頭と空前の大規模な行列で、天皇旗を先頭に立て36騎兵と344人の警察部隊、数10人の地方巡査に前後を守られた物々しい行列だったといいます。
石川県へは、大久保利通暗殺の紀尾井坂事件を起こした旧加賀藩士を警戒するため、大警視以下警視庁の警視・巡査を東京よりお供し、その大部分は鹿児島出身の剣術使いを選び、その警部・巡査の中には乞食姿や旅人の行商人に変装し、行商には、東京で出版した御巡幸行列絵図を町や村へ売り歩いたそうです。
行商人に扮した警部・巡査は、金沢周辺の島田一良等の残党や同志の行動を内々偵察していましたが、それを知らない石川県の警部・巡査はその行動を怪しみ連行し、任務が偵察と分かり解いたという話も伝わっています。さすがに内偵のための変装者は大聖寺やその西には行ってはいなかったそうです。
(当時の石川県は明治9年(1876)4月には加賀,能登,越中の領域でしたが、9年8月越前の大部分(嶺北7郡)を合併し,東は越後との堺の境川から西は敦賀木ノ芽峠までの大きな県になりました。明治14年(1881)まで)
その時、随員の1人として富山に着いた宮内大書記官山岡鐵太郎(鐵舟)は,その撃剣の高弟で富山出身の岸秀實が郷里富山に帰住していたので招き、金沢「忠告社」の杉村寛正・大塚志良、その他が島田一良に倣って何等かの企図をしているとの風説を県庁から聞き、川路大警視から県庁に命じて検束したらどうかと聞くと、岸は杉村らを検束すればかえって不測の事態を招きかねないと、すぐに放免するようにと釈明、川路等は諒解し,岸に万事を委任し岸は金沢に向かい杉村等を放免しています。
(大久保利通事件の首謀者島田一良の政治結社三光寺派は、杉村寛正が率いる「忠告社」から過激派が分派したもので、事件前あまりマークされていなく見逃したため事件に至ったといわれているらしい・・・。)
金沢では、明治11年10月4日製糸場、銅器会社、製糸社、撚糸会社の3社4人に金100円を御下賜され、長谷川準也(のち金沢区長)・大塚志良(準也の弟)の2名に御褒詞書各1通。その理由は「夙に勧業興生の志篤く、金沢区方開拓及び製糸・撚糸・銅器の諸会社創立等に尽力少なからずを以て」ということのようです。なお、長谷川はその後,二代目金沢市長になり全国に先駆けて市営発電所を建設しますが、のち没落し金沢を去ります。
(つづく)
●資料は、何年か前に書いた備忘録によるモノで、出典が書かれていないため何時か調べて書きます。