【金沢市南町】
明治天皇の金沢行在所は、はじめ兼六園の成巽閣を用いることになっていたそうですが、供奉官(ぐぶかん・お供)の旅宿を付近に得ることが不可能ということから、人家の多い町中の薬種商中屋彦十郎に居宅が選ばれ行在所の御用に充てるよう命じたところ、彦十郎は深く家門の慶びと即座に請けたといわれています。
(湯涌創作の森に移築され行在所の一部)
明治天皇が金沢に御着輦(ごちゃくれん)の1ヶ月前の9月1日より毎日職人40余人が入り、新設されたのは門と湯殿で、全家は、指示に従い質素で虚飾を避け多少の修繕を加え、玉座の他、宮内省の各課の詰所、料理場、近衛士官、兵の溜所、大臣参議卿舗室等々の工事に29日間を費やし、10月1日、御門前に角材1丈の杭に、長3尺5寸、幅1尺1寸5分の良材の檜の行在所と書かれた傍が建てられました。
当初、9月15日までに工事が終わるように厳しく督促されますが、はかどらずギリギリに竣成します。玉座には床の中央に唐物長卓に「宮崎寒雉作獅子の香爐」並びに「鶏冠黄桃の置物」を載せ、違い棚には「千鳥蒔絵硯筥」が載せられたそうです。
門前の通りでは、警視庁巡査数名が交代して警備し御輦駐中は毎夜行在所の軒下には中屋の九曜紋付大丸子提灯10数張りを吊って火を点し、御輦駐中は中屋前通りの中央に縄張りをして道路向かい側だけ一般人の通行が許されたという。
(御巡幸は、準備万端で、非常時の備えとして県令は林内務少輔の内意を受け、五宝町の西本願寺末寺(現本願寺派金沢別院)を非常御立退きの行在所に定めてられていたといいます。)
中屋薬舗が行在所に定められた理由である供奉官(ぐぶかん・お供)の旅宿ですが、記録のよると一定の宿割りにより80余軒の民家が充てられています。民家の分布は中屋薬舗を中心に、南町、尾張町、片町、石浦町、上堤町、下堤町、十間町、上松原町で、高位顕官の人々には裕福な名家が旅宿に充てられています。
名家が仰せ付かった高位顕官は、岩倉具視右大臣は片町の薬種商亀田伊衛門家、大隅重信参議は尾張町の製菓商森下森八、井上馨参議は尾張町の薬種商石黒傳六家が旅宿の御用を仰せ付かります。
しかし、名家の3家は、行在所との距離がある片町の亀田家は南町眞成社、尾張町の森下家は南町室田家、尾張町の石黒家は南町の萬谷家を借用して、仮にこれを持ち家と称し、皆自分の調度を用いて旅宿の御用を勤めています。
(亀田家、森下家、石黒家と行在所を仰せ付かった中屋家は藩政期から町年寄を仰せ付かった家柄町人でした。)
参考文献:「明治天皇北陸巡幸誌」和田文次郎著・加越能史談会、昭和2年9月発行ほか