【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
紀尾井町事件は、明治11年(1878)5月14日朝。時の参議兼内務卿大久保利通(享年49歳)の出勤途上、紀尾井坂から赤坂御門に至る人通りの少ない物静かな街路で旧加賀藩士島田を含む6人が待ち伏せし大久保利通を暗殺したテロ事件です。
(大久保は、明治6年11月に創設された内務省の初代内務卿で、内務省は「国内安寧、人民保護ノ事務ヲ管理スル所」で、天皇への直接責任を負うことで多省の卿より一段高く位置付けられ、事実上の首相だったといいます。)
事件後、自首した島田は「3千有余万人(当時の日本の人口)国民は、官吏を除けば、みな我々の同志である。」と豪語したといわれています。当時、確かに、西欧化を一日も早く進めようとする木戸や大久保一派に対することに世論の批判は強く、不平士族らの中には胸をすかした者もいたといわれています。政府は「斬奸状」を握りつぶし、要旨を短く紹介した朝野新聞は即日発行停止を命じられますが、事件後、天皇親政のきっかけとなったことは見落とせない事実です。
(大久保の死は、翌々日には岩倉使節団の福使として歴訪したイギリスの「ロンドン・タイムス」にも報じられ、記事には「大久保は日本の最近の台頭の全ての改革の推進者で、改革で禁止された悪弊の擁護者から特別に憎まれていた。」と論説し「彼を失ったことは日本にとって国家の不幸である。」と評したそうです。)
このような島田等の行動は、今の常識では、忌まわしい暴力事件で軽挙妄動のそしりを受けるものではありますが、特に島田の地元旧加賀藩士にとってはまさの快挙。当時の金沢に残る資料によると、維新に乗り遅れ、さらに西南の役の挙兵も見送り、”加賀っぽ”は、と身くびられていた不名誉を一掃する武勇で、当時の加賀の士族の心情を集めて爆破させたものともいえます。
時代が下りますが大正6年(1917)4月の普通選挙で郷土に帰り立候補した永井柳太郎が、金沢に着くと、先ず旧藩主前田家の墓へ、次いで島田の墓に参り「先生(島田一郎)は全民衆のために、時の専断政治家大久保を倒してその罪に殉じた。その行為は身を殺して仁をなすという、加賀武士の本領を発揮したものである。」と激称していますが、さすが演説の名人、当時の金沢人の心を捉えたフレーズであったことは確かなようです。
(永井は、この選挙では政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れますが、大正9年大阪から出馬し初当選します。)
事件は、大久保が麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発し明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中。午前8時半頃、今の清水谷公園(北白河宮邸)辺りで、刺客の内2人が摘草をしているようなふりで路上に(草むら潜んだという説も)、今のホテルニューオータニ(壬生邸)側の共同便所辺りに島田ら4人が待ち伏せ、大久保は2頭立の箱馬車に乗り、車内では政務の書類を見ていたといいます。
そこへ2人が現れ馬の前足を刀で切りつけ馬車を止め、続いて4人が襲いかかり、御者(中村太郎)を肩口から斬られ即死、車内より大久保卿は「無礼者」と一喝し、睨むが、島田は「頭めがけて支えの手とともに眉間より目の際まで切りつけ」さらに腰を刺し、馬車から引きずりだします。深手の大久保は、7、8歩ほどヒョロヒョロ歩くが、島田等はめった斬りにしたので、大久保は力つき倒れてといいます。
最初は首をもって行くつもりだったらしいが、“武士は止めを刺すのが礼”だと島田が反対し、短刀でのどに止めを刺します。止めの短刀は鍔際まで深くのどに刺してあり、その先端は首を貫通して地面に埋まっていたといいます。御者の中村太郎ものどに一本突き刺されていたといいます。
(唯一、ピンチを脱した馬丁の芳松は、北白河宮邸の門衛に急を告げ、邸内を突っ走り、表門から赤坂見附から赤坂御門近くの警視第三方面分署の注進し事件を知らせているが、余にも慌てふためき、物凄い形相で早口のために、狂人かと思われなかなか相手にされなかったという話が伝わっています。)
P.S:島田一郎は、東京谷中や金沢野田山の墓地に「島田一良」と彫られていますが、墓地が反政府主義者の聖地となることを恐れて、あえて「一良」としたという説があります。また、墓に限らず没後を書いたものには「島田一良」と書かれたものが多く見られます。
(つづく)
参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など