【鈴見橋→常盤橋】
この時期、天神町1丁目の田井菅原神社では、平成9年(1997)以来、加賀藩12代藩主前田斉広公に献上された“鏡餅”が再現されています。今年は24日に高さ1,2mの風格ある鏡餅が再現されるというので氏子の方に連れて行っていただき見てきました。
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(櫓飾餅、床飾餅、蓬莱飾)
田井菅原神社の田辺家は藩政期、加賀藩5代藩主前田綱紀公の後見の前田利常公(3代藩主)が実施した農政改革、改作法に尽力した十村役(他藩でいえば代官、大庄屋)で、その中でも代々中心的立場にあり、また、金沢城に最も近い現在地に居住していたことから前田家とは親密な付き合いがあったといわれています。
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(伊勢海老、橙、砂金、串柿など)
十村であった田辺家が神社になったのは、昔々、菅原道真公が大宰府に左遷される途中、藤井寺市の道明寺の叔母覚寿尼を訪ねてお別れの挨拶にうかがった際、旧知の田辺家のご先祖左衛門が道真公より直接授かった天神自画像を、永く守り神としていましたが、やがて田辺家は一向一揆の時代に福井経由でこの地に移り、さらに月日が流れ、武家制度の廃止になり、維新後、地域住民からの願いもあり、明治13年(1880)菅原道真公を御祭神を祀る田井菅原神社を創建し、その社家となりました。
ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10939664716.html
(田井菅原神社)
献上された“鏡餅“については、田辺家の古文書の中に、享和2年(1802)、藩の重臣へ12代藩主前田斉広公襲封後、初の御入国による新春の鏡餅に関し、古例の企画どおり製作のうえ献上したいと思うが、”如何でしょうか“とお伺いを立てたものがあるといいます。
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(神社所蔵の古文書の絵図より)
“鏡餅”は、「床飾餅」「櫓飾餅」「蓬莱飾」の3点セットで、真ん中の「床飾餅」は、紅白の大小、丸と菱形の50個のお餅が積み上げられ伊勢海老、橙、昆布、砂金・熨斗、海藻、裏白、ゆずり葉、串柿、本飾り増加奉納として三方に橘、大根、根深ねぎ、牛蒡、田作りと生の食材、花を神前に奉納します。右側の「蓬莱飾」は鉢に砂を入れた松飾り、左側の「櫓飾餅」は大型の先が細い立方体の紅白2段のお餅の上に昆布と鰹節をあしらいます。
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(櫓飾餅)
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(飾りの表示板)
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(本飾りの表示)
再現するには約2石2斗7升(約340km)のお米が必要です。再現1年目はお餅を搗いて作ったそうですが、ひび割れほか諸々の事情から、現在は蝋を溶かして作った模倣品を利用しているそうです。
(子供たちがお手伝い)
現在、古文書と絵図に基づいて再現された“鏡餅”は、藩政期、藩主に献上したそのままに、神前に奉納し、五穀豊穣・無病息災・健康増進・子孫繁栄などをお祈りします。神前には1月末日まで飾られるそうです。
(藩政期は、金沢城に奉納され、大広間に飾られたものと思われます。)
「床飾餅」の鏡餅の色は、上が白で下が紅になっていて、古文書には「白が上」と記されています。「白が上」である理由については、陰陽五行説に基づいているのではないかといわれているそうですが、説得力は、今一つというところです。
お殿様の鏡餅が“紅白”ということから、藩政期、金沢では武家の家々でも“紅白”で、巌如春の「加賀藩儀式風俗図絵」などでも、お殿様の鏡餅と同じく上が白、下が紅になっています。
(金沢の鏡餅)
現在、金沢の家庭の鏡餅も”紅白“ですが、上が紅、下が白で逆になっています。金沢以外にも、一部地域でも紅白のところもあるそうですが、町全体が”紅白“というのは金沢と近郊だけで、全国的では「白白」が一般的だそうです。
上下の色が逆になったのは、明治時代以降に庶民に広がっていく過程でそうなったといわれています。当時の金沢の謙虚な庶民は、お殿様やお武家様と同じではいけないと思い、逆に下を白、上を紅に飾り正月を迎えたのでしょうか・・・・。
これにも諸説ありますが・・・ようワカランがや?
参考資料:「金沢、まちの記憶五感の記憶」小林忠雄著・田井菅原神社のチラシなど
ameblo.jp/ushisaka/