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上野八幡神社の秋祭り

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【旧上野町・上野八幡神社】
旧上野町に伝わる「餅つき踊り」は、昔は1年おきの9月15日、上野八幡神社の秋祭りに行われていたそうですが、今年は10年ぶりで14日に行われ、偶然、通りかかりに町巡りに出会いました。永年、近くに住んでいながら今頃になって初めての見物でした。聞くところによると、もともと大人の行事でしたが、伝承を図るため小学1年生も参加して70歳までの保存会メンバーや町の人たちの三味線、笛、太鼓で20ヶ所を巡ったそうです。


(上野八幡神社の秋祭りは9月14、15、16日。ちなみの春祭りは5月14、15、16日)



(久しぶりの上野町の餅つき祭り)


この行事は、元々利家公の金沢入城を祝い餅つきを献上したのが始まりだとか、藩政期には12月行事の1つで、当時から村では各家の長男によって継承され、城内や大きな家などに呼ばれて、餅をつき踊ったといいます。祝意を表す場合にも行われたそうですが、今の「餅つき踊り」は、上野八幡神社のお祭りに、氏子の各家々を巡る祭行事となっています。



(金沢市指定無形民族文化財の上野町餅つき祭り)


昔は、午前10時頃、「餅つき踊り」の参加者全員が上野八幡神社でお払いを受け、その後神社の前で「餅つき踊り」を披露し、町内を上の方から順番に20~30ヵ所で演じながら午後4時頃まで巡ったそうです。



(上野町の黒獅子)


また、昔から上野町でも八幡さんのお祭りには獅子舞が町を巡っていたそうです。今は聞敬寺さんの隣に獅子飾りが設えてありました。獅子は「黒獅子」。天保の初期(1823年頃)越中の井波で造られたもので、若衆が管理しお祭りには町を巡り“棒振り”を演じたそうですが、最近は、一度復活しますが、半兵衛サ流の流れといわれた棒振りの師匠が亡くなり、その後続かず一度限りとなっているそうです。


(聞敬寺は、貞享6年(1689)創立の真宗大谷派の道場聞敬坊ですが、明治12年(1879)聞敬寺と寺号を称するようになります。)



(今の聞敬寺さん)


上野町には、他に「縄獅子」という大小の夫婦の獅子があります。大は上野八幡神社に、小は400年も続く旧家道法家に有り、こちらは棕櫚(しゅろ)縄で、演舞を考慮して造られていて、明治末か大正初めに、道法家の乙次郎が製作したしたものといわれています。



(帰りに、隣町の同じ上野八幡神社の氏子小立野共和会(旧小立野新町、旧松下町)の獅子舞をみました。)


≪上野八幡神社≫
上野八幡神社は。源氏の名将の後胤という空山が、前田利家公の信任厚く、石動山天平寺の法務取締役を命ぜられ、利家公が金沢城に入城の10年後、文禄2年(1593)に今の金沢大学医学部辺りに移住させられますが、元禄元年(1688)に、経王寺を建立のため小立野の現在地に遷座しました。宝暦9年(1757)御神体が当山派山伏医王寺に遷座され祭礼神事が営まれたそうです。明治2年(1869)神仏分離令により神職が奉仕するようになりました。




(上野八幡神社のお祭り)



≪上野町≫
上野町の昔の集落は、下小立野と呼ばれた原野で、牛坂の上野とも呼ばれ牛馬の草刈場だったそうです。この地に定着した人々はもと今の兼六園の山崎山周辺にあった山崎村の百姓で、山崎村が加賀藩の進出で、農地が町になったため今の金沢大学医学部の地に移住します。


(この辺りに移住する前の上野町がありました。)


その後加賀藩三代藩主前田利常公の生母、寿福院が先祖の菩提寺越前府中経王寺を建立したため農地を失い、今の上野地域に移住したといわれます。寛永9年(1632)辰巳用水が開発され、その余水を用いて下小立野を開田開墾し、上野村と称しますが、延宝6年(1678)「上野新村」と改めてたといいます。


貞享4年(1687)には、町方住民や武士が農地を相対で借請する相対請地が多くなり、金沢町奉行の支配下に入り上野町と称し、地子町の一つとなりました。



(14日の子供の餅つき踊り)


参考資料:金沢の公式ホームページ、上野八幡神社由来など


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