【白山市白峰】
数年前から地元の公民館の「史跡めぐり」に関わっていますが、今回はバス一台を仕立て白山山麓の旧白峰村に出掛けました。生憎の雨模様、それでも予定の林西寺の白山本地仏、百万貫の岩、御前荘での岩魚の塩焼きの昼食、傘を差しての町中散策、白山ろく民俗資料館の見学。そして、白峰のみなさんの心のこもったおもてなし、雨降りは雨降りなりの楽しいバスツァーでした。
(白山本地堂)
白峰は、平成24年(2012)7月に石川県内で8番目の重要伝統的建造物群保存地区に山村集落・養蚕集落として選定されました。金沢にも4ヶ所あり、仲間内では重伝建地区と呼ばれていますが、一般的には何のことか分らないので、ガイドの時は、舌を噛みながら長ったらしい重要伝統的建造物群保存地区といっています。現在は43道府県88市町村の108地区が選定されているそうです。
(白山下山仏を拝観する参加者)
≪白山本地堂≫
林西寺の「白山本地堂」は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、白山頂上にあった6000体といわれた多くの仏像が破壊されますが、当時の住職可性法師によって難を逃れた仏像が並んでいます。御前峰にあった「十一面観音坐像」や、大汝峰にあった「阿弥陀如来坐像」別山の「聖観音菩薩坐像」など7体と檜木の宿に有った泰澄大師作といわれる木造釈迦如来像の8体で、こちらにお参りするだけで、昔の白山は、仏教の霊地、いや、山が仏様であったのだということを実感します。
(白山本地堂の入り口)
その中でも、慶松平の室堂にあった「十一面観音菩薩立像」は国の重要文化財に指定されています。この像は別鋳組み合わせ造りで、日本国内では余り例がなく11世紀の金銅仏としては大作で貴重な立像であるといわれています。
(当日、この立像所縁の方が参加されていました。聞くところによると立像はご先祖が寄進されたといわれていました。また、お父上様も白山に関わりのある方らしく、知る人ぞ知るお話だそうで、その方の苗字がそのことを伝えています。)
(林西寺)
≪林西寺≫
養老元年(717)に白山を開山された泰澄太師により、白山登拝の拠点として開創されたと伝えられています。元来は天台宗のお寺でしたが、37代目の住職が越前・吉崎に蓮如上人を訪ねてその教えをお聞きし、文明5年(1472)に浄土真宗に帰依したとのことです。
(お御堂)
藩政末期には、天領の白山麓18ヵ村の別格別院に指定され、御本山・東本願寺から親鸞聖人の等身真向きの御影をいただいて御安置しております。現在の本堂はそのときに建てられたものだそうです。
(林西寺の隣に位置する八坂神社、泰澄大師が牛頭天皇を村の守護神として祀り、後に「牛頭」の文字にちなんで牛首村の名前が名付けられたといわれています。)
≪百万貫の岩≫
この岩は、昭和9年(1934)の手取川流域に大きな被害をもたらした水害で、手取川支流の宮谷川から土石流で3kmも流されてきた巨大な岩で、以来この辺りの名物となっています。岩は、県道33号白山公園線沿いの河床にあり、実測129万貫(約4800トン)、高さ16m、周長52mで、平成13年(2001)12月大災害の様子を後世に伝える資料として石川県指定史跡名勝天然記念物に指定されています。
≪雨の白峰散策≫
白峰は、昔は牛首といわれ、今でも伝統の織物として有名な牛首織にその名を残しています。地域の要となる牛首集落には、内外各地からの物資が集散し、商業が発展したといいます。天領18ケ村の大庄屋を務めた山岸家などもここに拠点が置かれていました。今も地区には数棟の巨大な「おやっさま」の住宅遺構が残り、最近では家々が鎧板張りの昔風の壁に統一され、玄関には数年前から昔の屋号の表札掛けられていました。
(山岸家は代々十郎右衛門を襲名し、天領である白山麓十八ヶ村の事務を司り、現在も建物の一部が残され、白峰の街並みの核となっています。)
(行勧寺庫裏白峰に残っている唯一の木羽葺き屋根です。屋根には太鼓堂があります。)
(ミンジャ(水屋)元来飲料水に乏しい白峰にてに引かれた用水は、簡易水道ができるまで300年余り使用していました。)
(雪だるまカフェ明治初期に建てられた古民家カフェです。白峰で古くから受け継がれてきた伝統食や、雪だるまのオリジナル商品を提供しています。)
(白峰温泉総湯は、全国でも希少な純重曹泉。湯上りの肌が絹のようにすべすべになるとか。)
≪白山ろく民俗資料館≫
資料館での解説は、薙畑(焼畑)と「出作り」の話でした。畑に肥料を蒔かずに行う農法で、山の中でも土壌が肥え、養分が豊富なところに、限られた農耕期でも雪融けが早く大木を伐採しやすいところに小屋掛けし、雪が降る前まで作業をするそうです。白山麓ではこれを「ムツシ」と呼び、そこで薙畑(焼畑)が繰り返され、その作業をするため山で小屋住まいをすることを「出作り」といったそうです。
白峰の藩政期は、天領で山間地であるため年貢も少なく、食べるものも豊富で、養蚕に加えて麻織物も盛んで、裕福な村であったそうです。今回は、白山ろく民俗資料館の移築された桑島の杉原家と、白峰の織田家を見学しました。
杉原家は嶋村(桑島)にあった旧家で、屋号を「助五郎」。江戸時代には嶋村の村役人(組頭など)を代々つとめたといいます。酒造業や養蚕を行うとともに、米・衣類など食料や生活用品をあつかう商いを手広く展開していたそうです。
建物は、藩政末期に元治元年(1864)7代目利五郎の時、永平寺の宮大工の棟梁らが建てたもので、一棟としては石川県下で最大級の民家で、外壁は土蔵造りになっています。1階の「オマ」(居間)には家族や客専用の「上のオマ」と使用人専用の「下のオマ」があり、2・3階は養蚕のために天井や梁を低くして中柱の少ない構造となっています。
(建物は、木造三階建、栗小羽葺延床面積1,109平方メートル(335坪)石川県指定有形文化財(建造物)昭和59年1月31日に指定されています。)
その日は、「史跡めぐり」の参加者は、平日にも関わらず特別に、火が入ったイロリを囲み、湯茶と昔ながらのおやつ(カマシイリコ)を戴きました。
(織田家と解説板)
白山や白山信仰、白山麓18ヶ村については、古くは泰澄大師の始まり、加賀と越前の支配権争い、天領時代から明治の本保県、そして神仏分離令、石川県に帰属した経緯など、聞けば聞く程、興味がそそられますが。何れまとめて書こうと思います。今回はこれまで・・・。
参考:林西寺や白山ろく民族資料館のパンフレットやそちらでお聞きした話など。