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第20回寺町サミットin上越②

【上越市春日山城跡・高田城跡】
私が知っている上越市は、上杉謙信と親鸞聖人ぐらいですが、今の上越市は、新潟県3番目の都市です。昭和46年(1971)高田市と直江津市が合併し、平成17年の大合併では13町村のうち9町村が過疎地域で、過疎地域促進特別措置法特例措置の条件を満たしていることから、過疎地域(みなし過疎)に指定され、現在は人口20万人の全国で一番人口が多い過疎地域だそうです。来年3月14日北陸新幹線が開通することから、訪問した高田の町は活気に満ちているように見えました。


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(高田駅)


≪春日山城≫
古くは越中国の管轄で、大宝2年(702)頸城郡が越中国より越後国に譲られ越後国府が置かれます。室町時代には、現在の直江津周辺の国府に越後守護上杉氏の館があり、その詰め城(本丸)として築城したのが春日山城です。城は、標高180mの敵の攻撃を防ぐのに便利な難攻不落の城とされ、長尾為景(景虎の父)、長尾晴景(景虎の兄)、長尾景虎(上杉謙信)、上杉景勝の4代の居城となります。


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(春日山城の北陸新幹線ののぼり)
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(春日山城)
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(春日山城現在と絵図)

≪福島城≫
その後、上杉景勝が会津へ移った後、越後を支配したのは越前北ノ庄の堀秀治で、春日山城では、政治を取り仕切るのに不便とし、また、加賀藩前田家を牽制するために、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移ります。


≪高田城≫
松平忠輝時代:
慶長15年(1610)。堀氏の改易後、徳川家康の6男・松平忠輝が従来の川中島藩12万石に加え、越後の新領である63万石を領する75万石の太守として赴任します。その後、松平忠輝は慶長19年(1614)に天下普請で高田城を築城し、福島城を廃します。


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(復元された高田城三重櫓①)

忠輝は父・家康や異母兄・徳川秀忠に疎まれ、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で遅参した上、忠輝軍が大坂に向けて行軍中の近江守山で兄秀忠直属の旗本2名を斬殺するという事件を起こします。しかも夏の陣後、家康と共に朝廷に戦勝奏上のため参内することになっていたが、忠輝は桂川で舟遊びをしていたそうです。これらが原因となり家康死後の元和2年(1616)、秀忠の命により忠輝は改易されて、伊勢朝熊に配流されました。


(松平忠輝の統治は、築城の慶長19年(1614)から改易は元和2(1616)。高田に来てからわずか2年間でした。一説では、秀忠が自分より才能に優れた忠輝の存在(忠輝の妻・五郎八姫は伊達政宗の娘)を恐れたための処置だったとも、徳川忠長や松平忠直と同様に幕藩体制確立の障害となるためであったと言われています。また大坂の役で得た領地は豊臣氏65万石余のみで諸大名に対して恩賞を与える事は困難であり、家康や秀忠は身内に厳しく対処することで乗り切る狙いがあったともいわれています。)


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(復元された高田城三重櫓②)


酒井家時代:忠輝改易後は上野高崎藩から酒井家次が10万石で入部します。家次は徳川四天王筆頭であった酒井忠次の嫡男で生母は徳川家康の祖父松平清康の娘なので家康の従兄弟です。家次は忠輝改易後の7月に高田城の受け取りを勤め、そのまま10月に入部します。家次は父と家康覇業の功臣として活躍した人物でしたが、高田入部から2年足らずの元和4年(1618)3月に死去。代わってその子・酒井忠勝が継ぎますが、元和5年(1619)3月に信濃松代藩へ移封されました。


越前松平家時代:松代より元和5年(1619)松平忠昌が25万9000石で入ります。忠昌は家康の次男で忠輝の異母兄結城秀康の次男、元和9年(1623)越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐ事となり、忠昌は本家を相続します。寛永元年(1624)嫡子仙千代(忠直の子松平光長)が新たに越後高田に26万石が与えられました。


(延宝2年(1674)世継ぎ問題から、いわゆる越後騒動に発展し、長期に渡り藩内が混乱状態に陥りますが、一旦は幕府により裁断が下され落着します。しかし延宝8年(1680)に将軍家綱が死去して第5代将軍綱吉が就任すると、綱吉による異例の将軍直裁による再審議により、57年間続いた松平家の高田藩は改易処分となりました。この印象悪化以降、高田藩は「懲罰的な転封先」とされることが多くなります。)


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(石垣のない高田城の堀)


幕府領の時代:延宝9年(1681年)7月から高田は幕府領とされ、以後4年間、信濃他の諸大名が2家組・1年交代で城番を勤めました。

稲葉正住の時代:貞享2年(1685)、稲葉正住は、後に江戸城大留守居役として幕政に復権するまでの16年間藩主となります。老中就任を経て元禄16年(1701)、下総佐倉藩へ移封されます。


戸田忠真の時代:高田藩の歴代藩主家で最も小藩のため、行政や城下町建設では消極的な政策が採られたたが、9年後、宝永7年(1710)に下野宇都宮藩へ移封となります。


久松松平家の時代:高田における久松松平家の統治はかなり厳しく特に重税が敷かれて領民は怨嗟の声を上げたといいます。移封の時期は、住民の抑え付けた定輝ではなく5代目の定賢の時代で、久松松平家の統治は31年間続きますが、移封先は高田よりさらに僻地の白河ですから実質的には左遷されます。


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(高田城の外堀・現在東洋一の蓮池)
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(博物館)
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(博物館のビデオを見る)


榊原家の統治時代:徳川譜代の名門榊原家の当主であった播磨国姫路藩主の榊原政岑は、江戸吉原遊郭での豪遊などを咎められ、将軍・徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられた。改易の話もあったがなんとか御家は存続となり、跡を継いだ榊原政永はしかし懲罰として譜代名門の姫路藩から高田に移されました。


(政岑は将軍徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけったといいます。寛保元年(1741)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を2500両で身請けするなど、奢侈を好み、さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれています。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買いました。森鴎外の「榊原政岑事跡」には、高尾太夫は後に高田箱井村の住んだと書かれているそうです。)


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高田藩に移った政岑は、子の政永の後見人として藩政の再建に努めたといいます。高田藩では歴代藩主の借財で財政は厳しかったのですが、政岑は率先して倹約に励み、新田の開墾や灌漑工事を行ない、生活苦の多い農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励し、政務に励んだといわれています。寛保3年(1743)2月若くして死去、享年31歳。


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(高田城の絵図)


以後榊原家の高田藩統治は、明治4年(1872)まで約126年間続きますが、今回、上越市を訪れ、地元の方から聞くのは榊原家より、高田築城からわずか2年間藩主だったの松平忠輝のことばかり、さすが、家康の6男で75万石の貫禄からか、特に観光では、榊原家より、徳川家康の血筋忠輝の方が分りいいのでしょうか、私のようなよそ者には、人間榊原政岑に興味がわきました。



参考資料:第20回寺町サミットin上越、基調講演磯田道史氏の資料や今回集められていた上越市から配布された資料など


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