【高田・金沢】
先日参加した寺町サミットは、中部・北陸地方の都市が基になり20年前に始まりました。当時、都市は合理化するだけでは成り立たないということが分かり、古いものと新しいものが渾然一体となった“まちづくり”が求められるようになったことから、以後“お寺のある風景“を大切にすることを再確認し、さらには寺院を活かした”まちづくり“の方策に関し、課題の提起や研究、意見交換の場となっていますが、今回は、少し脱線して、基調講演で磯田道史氏の加賀藩と高田藩についての話を聞くに及び興味をわき調べてみることにしました。
私の歴史は、観光から入っているので始めから腰が引けていて、歴史の先生からすれば鼻持ちならない素人で、当然、底も浅く、人に受けそうなことや自分が興味のあること、そしてスキャンダラスなことだけが一寸だけ詳しく、すべてが人の言ったことか読んだことの引用です。さらに歴史を点でしか捉えていなくて、時代も行ったり来たりするというもですから割り引いて聞いていただければと思います。
今回、興味を持ったのは、先ずは高田城の築城です。慶長18年(1613)天下の情勢は、まさに豊臣家から徳川家に代わるタイミングでした。築城を命じたのは徳川家康で、6男の松平忠輝が治める越後高田に新城を築くことを決めます。
高田は、北陸道の出入口で北国街道上の要衝です。そして加賀前田家の押さえであり、佐渡の金銀を輸送する北国街道を確保できるという重要な地域でした。よって高田城は徳川家の支配力を象徴する重要な役目を果たしたと考えられます。
(春日山城絵図)
もともと高田城は、室町時代から越後の太守の居城春日山城に始まります。その後越後国府などの機能を統合した新しい越後一国の都として、堀秀治・忠俊父子により福島城が築城されますが、堀氏が改易になり、徳川家康の6男松平忠輝が入城します。慶長19年(1614)に福島城を廃し、高田城を築きます。
(家康はすでに慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられて、江戸幕府を開いていました。しかし大阪城では秀吉の子秀頼が健在で、かつての豊臣家の功臣堀氏は 、関が原の合戦で徳川方に味方したとはいえ、徳川政権樹立に障害があると考えた家康は機会があれば堀氏を廃絶しようと考えていたようです。また、加賀金沢の前田家、出羽米沢の上杉家を牽制するためにも、越後を徳川一族で固めておく必要から、慶長15年(1610)閏2月2日家康は「堀忠俊は幼年で大国を支配する器量がない」として、福島城を没収し、6男松平忠輝を福島城に入ります。)
慶長19年(1614)築城工事は徳川の命を受けた仙台の伊達政宗(忠輝の舅)が普請総裁。加賀金沢の前田家をはじめ、13もの有力な大名に従事させ、かつて豊臣方だった大名たちが高田城のために私財をつぎ込まされ、徳川の味方であることを示させられたものと思われます。この徳川の勢いは工期の短さにも表れています。
当時の築城工期は7~10年だったといわれていますが、この高田城は4ヵ月。各藩から集まった技術者や労働者は5~10万人ともいわれた幕府の事業“天下普請”でした。しかも大坂冬の陣の3ヵ月前。高田城は、豊臣家との決戦への布石であったものと思われます。
(高田築城については、忠輝の実母茶阿局は金地院崇伝に新しい城の位置の吉凶を占わせていることが崇伝の日記に書かれているそうで「今いる福島城の南の方に新しい城を築きたいが吉凶はどうか」との問いに、崇伝は「一段と良き方」と占いっているそうです。)
それにしても、時に前田家は3代藩主利常公、舅の父家康の命による天下普請ではあるとはいえ、自藩への牽制と威嚇のための築城には、複雑なものがあったものと思われますが、後の利常公の強かな生涯を知れば、それらが肥やしになっているようにも思えてきます。ちなみに利常公は、松平忠輝の2歳年上の同世代です。
参考資料:第20回寺町サミットin上越、基調講演磯田道史氏の資料や今回集められていた上越市から配布された資料など