【高田・金沢】
高田藩の松平忠輝と加賀藩の前田利常は、豊臣政権では共に大老といわれた徳川家康と前田利家の側室の子として生まれます。父親との縁が薄く2人の父親との対面は6歳(忠輝は7歳説も有り)の時だといわれていますが、利常は父利家から気に入られ大小2刀を授けられています。しかし忠輝は、家康が誕生を素直に喜ばず、始めて対面したときも嫌ったと言われています。
(忠輝:天正20年 1月4日(1592年2月16日)徳川家康の6男。利常:文禄2年11月25日(1594年1月16日)前田利家の4男)
(高田城三重櫓)
(金沢城菱櫓)
忠輝は、捨て子のしきたりから家康の側近本多正信に拾わせ、養育先を探させ下野栃木(長沼)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されています。7歳の慶長4年(1599)1月、家康の7男、同じ母親の実弟松千代が早世したため、弟の後釜として長沢松平氏の家督を相続し武蔵国深谷1万石を与えられ、さらに慶長7年(1602)12月に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗っています。
(当時は捨て子の方が、強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があったそうです。また忠輝は双子で出生したからという説があります。)
(徳川家康)
慶長8年(1603)2月、信濃国川中島(松代)12万石に加増移封されますが、わずか40日目の転封で、姉婿花井吉成が家老として補佐することになります。忠輝は、慶長10年(1605)徳川秀忠が将軍に豊臣秀頼が右大臣の就任に際し、家康の命令で大坂の秀頼に面会。慶長11年(1606)には、伊達政宗の長女五郎八姫と結婚します。
(高田城三重櫓より城内)
忠輝が父家康から生涯を通じて嫌われたのは、「生母の身分が低いから」とか「顔が醜かったから」等と、親が言うことではないような話が伝えられていますが、家康という人は、子供の顔に異常なほどこだわりがあったようで、忠輝の異母兄である結城秀康も“顔が魚っぽいからイヤダ”といったそうで、子供が言うような事をいって冷遇したといいます。一説には“秀康も忠輝も双子で生まれたから、不吉だとして家康に嫌われた“という説もあります。
元和2年(1616)4月、家康が死去しますが、家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばず、拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら出向きますが、家康は最後まで面会を許さなかったといいます。元和2年(1616)7月には、忠輝は兄秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされ、元和4年(1618)には飛騨国高山に、そして寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流されます。
(流罪といっても、忠輝は元々の身分が高く、預かり先もきちんとした城であったためか、亡くなったのはなんと天和3年(1683)92歳と長寿で、当時の将軍は5代綱吉の時代です。流されたのが25歳のときですから、人生の約4分の3は流罪生活だったことになります。)
一方利常は、側室の子で同母の兄弟がおらず、幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられ、若くして人知れず苦労を重ねますが、頭脳明晰で偉丈夫、跡継ぎのいなかった兄利長の養子となり3代藩主になります。将軍家徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎え、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになりました。
忠輝も利常も共に夫婦仲が良かったといわれています。忠輝の妻五郎八姫(いろはひめ)は、13歳で忠輝に嫁ぎます。聡明で美しい女性だったと伝えられていて、しかし20歳代前半で離縁します。父政宗が縁談を持ち掛けてもかたくなに断り、残された和歌や手紙には、離れた人への想いがつづられていたとか、そして生涯独身を貫き一途に忠輝を慕い続けたといわれています。
利常の結婚は、政略結婚ですが、夫婦仲は非常に良かったと伝えられ、利常との間に3男4女を儲けています。しかし元和8年(1622)5女夏の出産後体調を崩し7月には24歳の若さで病没します。前田家は外様筆頭ということで、幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母は、夏姫の出産後に母体の調子が宜しくないとし、珠姫を隔離し、事情を知らない珠姫は、利常の御成りがないのは寵愛が薄れたからと誤解し衰弱死したとも伝えられています。
(忠輝も利常も夫婦仲は人もうらやむ仲の良さが伝わってきますが、離婚と死別という自らではどうにもならない、非情な別れが訪れます。)
利常は、大坂の陣の終了後、家康から与えられた感状では「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してこれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んだといわれています。
そして家康は死の床で枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、手も打たなかった」といったという。そして「我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍(秀忠)の厚恩を肝に銘じよ」と言い残したといいます。
(家康は「おまえなんぞ、いつでも殺せた」といい、秀忠への忠誠を植え付けていますが、それを逆手に取り、利常は「家康公は、死ぬ間際に前田を助ける事にした」といったと言い触らしたという利常の強かさが伝わっています。)
利常は、息子4代藩主光高の急死で、跡を継いだ綱紀が3歳とまだ幼かったことから、綱紀の後見人として藩政を補佐します。その間も利常は常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらもうまくかわし120万石の家領を保ち、内政も「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの態勢を築きます。万治元年(1658)10月12日に66歳で死去。
(忠輝は92歳、利常は66歳の生涯でした。最近、働き過ぎ短命説をよく聞きますが、流罪生活で働かない忠輝の方が26年も長生きしているのが、その証明かも?そんなことはないと思いますが・・・?いずれにしても2人の側室の子は、共に興味が尽きない人物であることは確かです。)
参考文献:「武士の通信簿」磯田道史著・平成20年10月・(株)新潮社など