【加賀・能登・越中】
「お猿」こと前田利常公は、その生い立ちから、誰も加賀120万石の日本一の大大名になるとは思わなかったと伝えられています。母親は、秀吉の朝鮮出兵に際し肥前名護屋城に利家公ほか多くの武将が集めれ、陣中ですから女性がいないので、武将の不満がつのることから、秀吉が「洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」ということから、それに従わざるを得なかった金沢の利家公正室“お松”の呼びかけに、誰一人声を上げない中、志願して赴いた女性”ちよぼ”でした。
(女性に飢えた55歳の利家公が、22歳の”ちよぼ”に手だすのは必然で、すぐに胤がつき、金沢に戻され生れた赤子が「お猿」で、母親は身分も低くかったこともあり、大して注目もされなかったそうです。)
以後、赤子と母親はひっそり暮らしていたところ、父の利家公から突然「越中の前田対馬に預ける」といわれ、このときから「お猿」と呼ばれるようになったと伝えられています。6歳の時、父利家公が死ぬ1年前に、急に「会いたい」といってきて親子の対面が決まったといいます。はじめての対面で利家公は「お猿」を見て大変喜び、気に入ったらしく、ふところに手を入れ丈夫な子かどうか肉付きを触って、戦士としての性能を確かめたといわれています。
(前田利家公・尾山神社蔵)
父利家公の死後、兄の利長公が前田家を継ぎますが、父利家公と比べらると凡庸で、少し粗暴だったとか、頭もさほどではなかったそうですが、「目鑑(めかん)が強い」といわれ、物事を見抜く能力が人より優れていて、家康の力を正確に把握するなど、関が原の戦いでは、その目鑑で前田家の危機をすり抜けています。
(利常公の室、家康の孫球姫のお供が住んだ跡・今の兼六園)
関が原の戦では、「お猿」は極めて重要な役割を演じています。西軍についた丹羽長秀の子長重の小松城に人質に出されています。当時まだ利長公と顔を合わせていないことから、前田家の知恵者が「お猿」を人質に仕立てたものと思われます。丹羽長重は、8歳であった「お猿」の器量を見抜き将来前田家の総大将になるかも知れないと思ったと伝えられています。
「お猿」がはじめて2代利長公の対面したのは、関が原の戦果として所領を加増した事を祝う能見物に、前田家一門の子ども達が一堂に集められていた時だといわれています。その時、「お猿」だけが他の子ども達とは違い、これから能がはじまるというのに、落ち着かない様子で乳母に連れられて座敷のあちらことらを遊びまわっていたそうです。
(少し脱線しますが、最近よくいわれる多動性障害(ADHD)の子どものようですが、多動障害(ADHD)の子どもには、将来、大きく才能を伸ばし、天才になりうる可能性を秘めているそうで、多動障害の3つの特徴である“集中力がない”は「ひらめき、創造性」であり、多動は「エネルギッシュ、雄弁」、衝動性は「実行力、行動力」であるといわれ、実際に歴史上の人物には、リンカーン大統領やウィンストン・チャーチル首相、さらにはレオナルト・ダビンチ、ロックフェラー、日本では坂本竜馬など、偉人や政治家、芸術家といわれる人に多いといわれています。)
「お猿」の様子を見て、気づいた侍が乳母に「誰の子か、目のうちと、骨格が、余人と違う」といったのが切っ掛けで、「お猿」であることが知られ、家臣の子どもより下座に座らされていたのを、一番上座に座らされることになり、それが兄利長公との初対面だったといわれています。
(五十間長屋と橋爪門櫓)
はじめに口を開いたのは、利長公で「大きくなったな。眼が大きい」といったと古文書に書かれているそうですが、利長公が何よりも驚いたのは体格で、当時としては異常な大男であった初代利家公の体つきに瓜二つ、「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」とため息をついたといいます。
(はじめに利常公が造った玉泉院丸庭園・再建中)
その日を境に、「お猿」の生活は一変し、若君らしい暮らしぶりになり、毎日、がつがつと飯を喰らい、大きな体がますます大きくなったといいます。兄の利長公には子がなく、まだ戦争が続いていた当時、時代も手伝って、優男の兄たちを飛ばして、体躯もよく頭脳明晰な「お猿」が利長公に前田家の養嗣子としてえらばれ、代々嗣子が名乗る利家公の輝かしい幼名「犬千代」を名乗ることが許され、利常公の殿様としての人生がはじまったといわれています。
(「お殿様の通信簿」前田利常 其之壱に詳しい)
(前田利常公)
参考文献:「お殿様の通信簿」磯田道史著・(株)新潮社、平成20年10月1日発行ほか