【加賀・金沢】
犬千代は、9歳で元服し利光を名乗ります。13歳の利光(利常公)が、64歳の徳川家康(古狸)に対面したのは、慶長10年(1605)の春、前田父子が伏見城に出仕し家康と将軍秀忠に対し君臣の拝謁をしたのが始めです。家康は利光の顔を見るなりただ者ではない事を見極め、「おまえは日本中の大名の筆頭である。おれに忠誠をつくせ。」といったと伝えられています。
さらに、古狸は利光(利常公)の子どもっぽい頭髪をみて怒りだし、服装にまでケチを付けはじめたといいます。古狸の家康は利光(利常公)を早く大人っぽく見た目を整えさせ前田家の代替わりをすすめ、豊臣攻めに連れて行こうと目論んでいたのでしょう。その2ヵ月後には利長公が引退し、13歳の利光(利常公)が加賀前田家の藩主になります。
(家康は、さらに、今まで羽柴を名乗っていた利光(利常公)に「松平」を名乗らせています。それにより“前田家は豊臣方から徳川方になった”と世間に思わせるためだといわれていますが、さすが、したたかな家康の古狸ぶりが窺えます。)
利長公の死後、前田家は古狸の思惑通り、22歳の利光(利常公)は徳川家の婿として豊臣攻めに堂々と出陣します。冬の陣は3万人、夏の陣は2万5千人というわれた前田家の軍勢の中で、体格のいい利常公は馬上に映え目立ったといいます。
その戦で驚くべき天才的将才を発揮した利光(利常公)の活躍を漏れ聞いた古狸の家康は、たちまち利光(利常公)を警戒したといいます。豊臣が滅びれば、徳川にとって最大の仮想敵国は前田家になります。後に家康自身臨終の床で語った「利常だけは殺しておきたい」という感情は、すでにこの時から思われます。
前に「利常公の奇行」にも書きましたが「利常だけは生かしておいてはならぬ」と言ったという家康は、戦場では同じ天才的将才をもっていただけに、その才に乏しい息子秀忠に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と再三意見をするが、人柄の良い秀忠は同意せず、娘婿の利常公をかばったといいます。
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家康は、大阪夏の陣が終わった時、古狸ならではの思惑から利光(利常公)に四国一円への「国替え」話を持ちかけたといわれています。米の二期作の他、北陸より好条件の四国ですが、古狸の魂胆を見抜いていた利常公は断っています。その後も古狸が仕掛ける政治的毒を飲ませ続けたといいます。
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実際にも徳川から送り込まれた年寄本多政重が毒を盛るという噂は絶えなかったといいますが、利常公は「そのように言い触らすものがいれば成敗する」といって取り合わなかったとか、しかし、到来物の菓子などは口にすることはなく、家族にも申し付けていたといいます。
また、秀忠をはじめ家光、家綱という徳川の歴代の世襲将軍をバカにしたような逸話が残っていて、幕府とのきわどい駆け引きなど、その痛快な生き様は誰にも真似の出来ないもので、まさに家康から古狸ぶりを受け継いだのではとも思える利常公は、今も金沢では語り草になっています。
(詳しくは「殿様の通信簿」前田利常其之弐をご覧下さい。)
そんな2代目古狸?利常公を知る2代将軍秀忠は、愚かといわれた3代家光を憂い、取り巻きたちを厳選、彼らに論語の「君、君たり、臣、臣たれ」を曲げて「君、君たらずとも、臣、臣たれ」といってハッパをかけていたそうですが、この辺りは真偽の程は分りません?
参考文献:「お殿様の通信簿」磯田道史著・(株)新潮社、平成20年10月1日発行ほか