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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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金沢、40万都市論

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【金沢市】
金沢市は、今年(2014)11月現在で推定人口は464,856人だそうです。永年、北陸の代表都市として競ってきた新潟市は現在808,152人の政令指定都市になっています。少し調べてみると、今から40年前には同じ40万人前後の人口ですが、それが現在、金沢は約半分。大きく引きはなされています。



(浅野川大橋)


当時、一足先に40万都市になった新潟市は100万都市構想を立て、金沢も60万都市をめざしていたことは、以後の金沢市における都市計画や平成に入ってからも大合併での周辺町村への積極的な働き掛けからも容易にそのことが窺えます。しかし、その合併は失敗に終わりますが、まだ政令指定都市への可能性は残しています。人口が増えない原因はいろいろありますが、その一つとして、多くの若者が仕事を求め一方的に大都市に出て行ったことも見逃せません。


(犀川大橋)

今の金沢は、人口では全国34番目の都市です。現在、50万人以上の都市が指定される政令指定都市には約5万人不足で、中核市に位置づけられていますが、強いて人口の多さということなら、新潟や岡山が吸収合併して政令指定都市になった経緯もあり、金沢も、今後、周辺の2町が加われば50万人を越え、そう簡単ではありませんが、政令指定都市になることが出来ます。



(石川門と藩祖前田利家像)

(兼六園の朝日)


(金沢駅)


今日の話は、今から40年ぐらい前、昭和50年代(1975~1984)のお話です。当時、金沢の人口が40万人をこえ、「これ以上の人口増加を歓迎すべきではない」という反応が持ち上がり、その代弁として当時、後の岩波書店長の安江良介が「北国新聞」に「歓迎されざる四〇万人」という記事を掲載しているそうです。


(兼六園から新幹線の高架橋)


≪安江氏のよびかけ≫
当時、高度成長路線のひずみとして、物質的財産のみに目が奪われ、精神的財産を喰いつぶすという結果に対し、人間の生き方や連帯を問い直すということを前提に、都市が高度成長で急激に膨張し、そして崩壊し始めたことから、金沢のような伝統的な骨格をもつ町では見直しをしているものの、いつまで、その誇りうる都市機能が保たれるかを憂い、それゆえに、金沢の肥満化を憂慮し、価値観を根底から再検討して、独自の都市政策と主体性の確立をしようと、市民によびかけます。



(主計町・ひがし茶屋街)


(少し雑ですが簡単にいうと、「金沢の町は他所と一緒でなくてもいいがいね、高度成長に振り回されんと、伝統も大切にして、金沢の本質を見極めて独自路線で進んまっし。」ということか・・・。)





(片町・香林坊)

それを受けて、一部、素朴に高度成長追随の立場から反論もあったといいますが、金沢では、自然環境を活用し、伝統文化を中核に、日本人に人間回復の場を提供する、住みやすい都市づくりが、金沢人のほぼ一致した思いになり、以後の都市政策に反映されようになったもの思われます。



(卯辰山から金沢市内)


(そして「40万都市への加入を素直に喜べない」「大きいことは、良い事ではない」という市民感情が表面化します。まさに画期的な異変というべきか、と「北陸と風土の歴史」の著者浅香年木氏は書かれています。)


(旧観音町辺り)

また、戦後、永らく言われ続けられた「戦火を受けなかったことが、都市の再開発を困難にしている。戦火を受けた方が、どれほど、近代都市への脱皮が容易であったかわからない。」という罰当たりな発言がなりをひそめていったのを覚えています。




(長町武家屋敷辺り)


今、北陸新幹線の金沢開業にあたり、金沢に大げさに言えば町始まって以来のスポットライトが当たっているようです。戦災に遭わなかったこともありますが、その後、遮二無二近代都市を目指し、古いものを簡単にぶち壊し単なる画一的な地方都市になっていたとしたら・・・。昔、金沢を憂い、金沢のあるべき姿を提言された人々に自然と頭が下がります。




(寺町辺り)


たまには、昔の本を読むのもいいですネ・・・。



参考文献:「北陸の風土と歴史」浅香年木著1977・山川出版社ほか


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