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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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昔の金沢工芸職人①本当は・・・?

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【金沢→東京】
金沢の工芸が注目を集めています。いや仕掛けているのでしょう。腰が重く自ら打って出ることが苦手な金沢人が北陸新幹線金沢開業という、またとないチャンスに直面し、関係者も行政も、商売上手な都会の業者やプランナーに煽られ、それに乗っかったというか、主体的かは分りませんが、かって見たことも感じたこともない、やる気と本気が伝わってきます。


(金沢駅鼓門)

銀座の金沢
http://www.ginzanokanazawa.jp/


金沢市では、北陸新幹線金沢開業に向けて計画してきた金沢クラフト首都圏魅力発信拠点「銀座の金沢」が東京・銀座の目抜き通りに今年10月30日開店しました。店舗は新たに完成した商業施設「キラリトギンザ(地上12階、地下3階)」の6階約300㎡で、金沢の食と工芸を体感できる場として金沢の魅力を発信することになりました。また、同月8日にも同じ銀座で石川県アンテナショップ「いしかわ百万石物語・江戸本店」も開店しています。


「銀座の金沢」のレストランでは金沢の農林水産物や地酒に、伝統を踏まえて金沢の工芸やクラフトを用い料理を提供し、ギャラリーでは金沢の工芸やクラフトの展示と販売を行い、また、金沢ファンが集まる情報基地として、茶道や伝統芸能を披露する企画を展開し、国内外に金沢の魅力を総合的に発信するのが狙いだとか、石川県のアンテナショップ「いしかわ百万石物語・江戸本店」は約300mの至近距離だそうです。

今日の話は、金沢工芸のルーツともいえる加賀の藩営工房「御細工所」に関わるお話です。最近、前にも書いた「御細工所」と見方が違う本に出会いました。40年前に書かれた浅香年木氏の「北陸の風土と歴史」に書かれたていたもので、氏が書く多くの文章と同様にかなり辛口で、今まで伝え聞いた御細工所には触れられていない、いわゆる御細工者の内輪の話や影の部分が書かれていて興味を持ちました。


(金沢城石川門)7


その一部を紹介しますと「御細工者」は、従来、聞き及んでいるような、厳しい手づくりの世界とは、別の世界に住んでいたといいます。技術の伝承ということから、採用は御細工者の子が優先的になるところがあり、系譜は固定化される傾向から、一代限りのようで、世襲ぽくって、勤務は隔日に半日ほど御細工所に勤務し、自分の屋敷と藩営の工房で、藩主の自家消費用と贈答用の高級消費財の手づくりに専念する、ひとつかみの温室育成の職人たちであったそうです。



しかし、かれらにも一般の町の職人とは違った意味で苦労があったといいます。それは五代藩主綱紀公の審美眼と見識に振り回され、デザイン、材料、手法、技能などすべてにこまごまとした指示を押し付けられ、職人たちの自由な発想や工夫が育つ余地がまったくなく、創造への意欲を封殺した世界で、しかも財力にまかせ、京や江戸から最高級水準の技術を大量に移植し、第一級の受容力を誇りながら、何一つ新たなものを創造することができなかった「百万石工芸」の温床であったと書かれています。




さらに辛口は続きます。御細工所は「加賀百万石」の悠長にして不毛な浪費の工房で、この温室工房が、現在の「美術工芸王国」とよばれる金沢の伝統工芸の技を育てたのだとよく言われていますが、それは少し違い、金沢の伝統工芸の生みの親は、決して「百万石」ではなかったと解いています。



(綱紀公)


そして近代に生きながらえ、市民権を得た手づくりの技のほとんどは、利常公や綱紀公以来の藩営工の御細工所で育ったものではなく、むしろ、近世の後期になり、温室の外で、新に生まれたものであると断言されています。かって「百万石行列」をマッカーサーの行列といったという浅香氏の反骨と金沢に対して愛憎半ばする情熱か伝わってきます。




何れにしても、彼の発言にも一理あるように思います。廃藩によって「御用職人」や「御細工者」は、路頭に投げ出され、仕事も無くなりますが、細々ながらも、磨いた手づくりの技が受け継がれたのは、明治、大正、昭和のはじめの金沢商人の旺盛な道具購買力であったといわれています。当時、守勢一途の金沢商人は、資産の三分の一は不動産、三分の一は道具にかえ温存し、あとの三分の一は商売にという暗黙のルールが、金沢の伝統工芸を養てたのだという言い伝えとも合致します。


さらにいえば、浅香氏の祖父も父も蒔絵の職人で、彼も旧制中学では、工業学校の図案科に入学し学制改革で新制高校は、そのまま図案科を卒業しています。あの敗戦のドサクサの時代でも将来の工芸のホープとして嘱望されていたと聞きますが、進路を変えて、史学の道に進んでいます。しかし、いまとなっては、確かめるすべもありませんが、彼には、引き継がれた蒔絵師の血が、だれよりも深く鋭く工芸そのものを見つめさせたものと思われます。




多分、藩政期であれば、あの綱紀殿も口が出せない、優れた御細工者になっていたのでは・・・?また、そのまま工芸家になっていれば・・・?私の記憶では、高校の実習の時間、参考作品の中に浅香氏が高校生の頃、描かいたと思われる植物の細密描写だったか?植物の便化だったか?黄ばんだ画用紙に的確に描かれていた習作が、おぼろげながら蘇ってきます。


利常公の孫“綱紀公と文化政策”御細工所①
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11585736675.html
“綱紀公と文化政策“御細工所②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11587451645.html
御細工所③藩政期から明治へ
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11595625108.html


浅香年木(あさかとしき)
昭和時代後期の日本史学者。昭和9年(1934)3月6日生まれ。石川工業高専教授をへて、昭和62年金沢女子大教授。古代・中世北陸の地域史研究をおこなった。昭和62年(1987)4月25日死去。53歳。石川県金沢市出身。金沢大卒。著作に「日本古代手工業史の研究」「治承寿永の内乱論序説」など。


(北陸の風土と歴史)


参考文献:「北陸の風土と歴史」浅香年木著1977・山川出版社ほか


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