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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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羊(ひつじ)と兼六園

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【兼六園→尾山神社】
来年の干支は”羊“・・・。年賀状、そろそろ作らんなん!!そんなことを思いながら兼六園を歩いていました。フウッと頭に浮かんだのが10年ほど前?何かで読んだ兼六園で羊を飼っていた話です。それからが大変!!資料集めです。整理が悪いのに10年前かどうかはっきり覚えていないので、とにかく何冊もある兼六園本のページをめくり、スクラップを探しました。


(兼六園の朝日)


(始めに見つかったのは、兼六園の資料ではなく、金沢城の本で“1830年(天保期)頃の金沢城“の絵図?の金谷御殿に「綿羊小屋」と書かれていました。しかし、同じ本の1850年(嘉永期)頃の金谷御殿には、御殿は増築されていて、綿羊小屋は跡形もありません。しかしその本の”藩政立て直しと隠居政治”の中に、ほんの一行だけ竹沢御殿の綿羊小屋に触れています。)



(よみがえる金沢城)


資料を探している内に、断片的にですが思い出が浮かびます。うろ覚えで後で思い違いが分りますが、竹沢御殿では、余りにも臭いが強烈で、竹沢御殿の主ご隠居斉広公が臭いを嫌らい小屋を金谷御殿に移されたとか、幕府から拝領されたことから、捨てるのも食うわけにもいかず、目的も無く、ただ、生かしていただけだ、等など。曖昧な記憶が蘇ってきます。




(金谷御殿跡・現尾山神社)


どうも見つからなかったのは、何冊かの兼六園本やスクラップの中に有ると思い込んでいたのが間違っていたようです。思い直し、年代順に綴った新聞のスクラップを捜し直すと、ちょうど10年前、平成16年(2004)4月30日の北国新聞朝刊に記事を発見しました。



(平成16年(2004)4月30日の北国新聞朝刊に記事)

その記事によると、羊は文政4年(1821)に幕府から綿羊4匹を拝領し、竹沢御殿(今の兼六園)の西側に造った土蔵「御鳥部屋」で飼育が始まったそうです。当時、竹沢御殿の造営はすでに進められていました。実際に斉広公が隠居したのは、翌年の文政5年(1822)11月に正式に幕府から斉広公の隠居と斉泰公の家督相続が許可されます。


(綿羊小屋が書かれている金谷御殿絵図)


そして、羊が金谷御御殿に移されたのは文政8年(1825)。斉広公の逝去後ですから、斉広公が臭くて金谷御殿の移したのでは無い事が分ります。また、学者によれば綿羊は無目的で飼っていたのではなく、当時、赤字財政に悩む加賀藩で、新たな産物として毛織物に目付けていたといいます。


(12代加賀藩主前田斉広公、天明2年(1782)9月5日~文政7年(1824)8月4日)



(オランダ産の4匹の綿羊が・・・)


「竹沢御殿①~③」市民が見つける金沢再発見
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11733078614.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11735068981.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11738503174.html



その後、綿羊の行方は、文政9年(1826)藩は、持て余したのか町民らに飼育を募るが、希望者がいなかったため、そのまま飼育し8年後には27匹に増えたといいます。結局、藩は文政11年(1828)に町人に譲り渡したそうです。



(竹沢御殿跡・現兼六園、場所は分りません)


その後、加賀藩で毛織物が作られたという記録はありません。食ってしまったのでしょうか?飼育はそれなりに繁殖していることから成功かも、毛織物が作られていれば、絹織物と並び石川県は今にも増して繊維の一大産地になっていたのでは・・・・・?



(よみがえる金沢城より)


参考文献:「よみがえる金沢城」石川県教育委員会、平成18年3月発行・平成16年(2004)4月30日北国新聞朝刊より


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