【金沢・兼六園】
栄螺山(さざえやま)は、最近発行された「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」に”観光客が発見した栄螺山のナゾ“として紹介されています。9mたらずの築山ですが、文章には、左巻きですが「さざえ」に似ているからとか、江戸の加賀藩上屋敷の栄螺山の名前を真似て付けたという説があると書かれ、まだまだ定説の覆す発見があるかもしれないので、「散歩しながらよーく観察してみましょう。」と締めています。
ある説によると栄螺山は、藩政後期、東北や関東で流行った仏堂で、堂内が回廊で、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うという螺旋構造の建物の外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂(さざえどう)」と呼ばれたものを模したものかもと、一寸眉唾ですが聞いたことがあります。
これも聞いた話ですが、兼六園が藩政期までは山頂まで仏像を模したものか幾つもの灯篭が立っていて、明治になり一般開放され、盗まれたのか一つ減り二つ減りし、今、山には一つも残っていませんが、ただ一つだけ残っているのが霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島(亀甲島)の亀の尻尾にあたる灯篭が、栄螺山にあったものだといわれています。しかしこれも定説を覆すだけの証拠も根拠にもなりません。
栄螺山について書かれたものを拾ってみますと、始めて聞くこともあり兼六園の奥の深さを痛感します。「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」にも書かれていますが栄螺山は霞ヶ池の排土を盛り上げで築かれた人工の山で、天保8年(1837)13代藩主斉泰公の指示で、竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池が広げられ栄螺山が築き足されました。天保10年(1839)には山頂に三重宝塔が建立されます。三重宝塔は、先代斉広公の正室真龍院と斉泰公の生母で側室栄操院が斉広公の供養のために建立したものだそうです。
(竹沢庭とは、隠居所竹沢御殿を13代藩主斉泰公が建物を取り壊し庭園にしたもので、先代の慰霊空間でもありました。後に地続きの蓮池庭との間にあった門と柵をはずし一体化したのが今の兼六園です。)
この三重宝塔は、戸室山から切り出した石で造られ、斉広公の祥月命日を前、7月4日に笠石が置かれ、その日は斉泰公も栄操院も見物するため、まだ幾つか残っていた竹沢御屋敷の2階から見物するため訪れています。また、今はありませんが、宝塔に24箇の風鎮は、斉広公の娘厚姫と勇姫が分担して納められたといわれています。
三重宝塔の龕(がん)の中には、12代藩主斉広公自筆の法華経と斉広公の木像を納めたのは、斉泰公で斉広公の供養のためですが、明治になり公園として開放されると、いつの間にか木像は紛失し、経巻は当時の県勧業博物館に保管されていたそうです。
(失った木像は、斉泰公の生母栄操院小野木氏が能登珠洲の法住寺の霊木吼木桜で刻まれたものだといわていました。)
(対岸からみえる三重宝塔)
当時の三重宝塔は、斉広公の供養の場であることから、前には小石が敷かれていたそうで、清浄さを保つため、草履を脱いで、素足で上がったと、天保11年(1840)9月26日に竹沢庭を見分した年寄村井長貞が日記に書いているそうです。
(栄螺山の案内板)
竹沢庭は真龍院にとって斉広公を偲ぶ場であり、竹沢御殿の跡に建物を建てることを好まず、庭園化にすることを願っていたものと思われます。そして、竹沢庭の改修は、孝心を尽くす斉泰公が真龍院を迎えるために行われたものと解釈すれば、栄螺山の三重宝塔はその竹沢庭の中心であったのでしょう。
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著、桂書房2006年12月発行・「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行・「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」北国新聞2014年11月発行