【兼六園】
兼六園の金仏さん!!いや、「公園の金仏さん」。明治9年(1876)生まれの祖母が、昔、兼六園の日本武尊(やまとたけるのみこと)の銅像をそのように言っていたのが、頭の隅にこびりついていたのか、昭和30年代(1955~1964)に八田健一氏か書かれた郷土シリーズ「百万石太平記」を読んでいると“公園の金仏さん、日にち毎日雨ざらし”という唄が書かれていて“やっぱり”と思った覚えがあります。
(当時、兼六園の名称は兼六公園で、通称「公園」と呼ばれています。それにしても仏さんでもないのに金仏さんとはネェ・・・。)
公園の金仏さんに“日にち毎日雨ざらし”なんて落ちが付いて洒落ていますが、金仏さん(日本武尊の銅像)は野暮な戦争の遺産です。明治10年(1877)の西南戦争に戦勝した記念に明治13年(1880)に建立された日本で最初の銅像だそうです。しかも、皇室所縁からか、ほとんどの金物が出兵(強制供出)した第二次世界大戦でも免れ、以後も兼六園に不似合いだと批判されながら今も健在です。誰の銅像かも知らない観光客でも、余りに堂々としているので仰ぎ見ても頭を垂れことなく和やかな親近感を覚えるようです。
何故、兼六園に日本武尊(金仏さん)なのかということですが、聞いた話によると話が幾つもあって、書けば長くなりそうですが、簡単にまとめて並べてみます。先ず一つ目は、西南戦争と大昔に日本武尊が九州で熊襲退治をした故事と重ね、西南戦争の戦勝を記念して建てられたもので、戦争に派遣され戦死した郷土の将兵を祀った慰霊と顕彰のための碑だそうです。
(石川県から約2,000名の将兵が参戦して、約400名が戦死しています。)
二つ目は、朝廷軍及び明治軍の最高司令官の有栖川宮家と前田家の婚儀が成立したことから、前田家と皇室の関係が深まることへの期待もあり、日本武尊像が建立され、台座の石積みには有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の御染筆による「明治記念之標」が刻まれています。
(有栖川宮熾仁親王は、「宮さん、宮さん、お馬の前に・・・」と歌われた宮様で、皇女和の宮の許婚だった皇族です。熾仁親王の異母弟、威仁(たけひと)親王は有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第四王子で、妃は前田家14代前田慶寧公の娘慰子(やすこ)。)
(日本武尊像①)
三つ目は、加賀国は、弘仁14年(823)2月、わが国で最後に建てられた国で、加賀の地名は賀(よろこび)が加わるという意味だそうです。日本武尊が東征の後、越前の荒乳山を越え北陸道を下ったとき、武尊の皇兄大確尊が加勢のため数万の兵を率いて江沼郡で追いついたのを武尊が大いに喜びを加えられたので加賀国と号したと伝えられています。
(平成の修理に定礎)
この銅像の建立は、当時、全国的な大ニュースで明治13年(1880)7月30日の「朝野新聞」に取り上げられ、金沢だけでなく中央にまで注目されていたようです。記事を要約すると、寄付金をする者がおびただしく多くすでに起工中で、記念之標の台石は、旧金沢城鼠多門の内(玉泉院丸)にある大石170個を使用することにきまり、城内から公園までの運搬に1、080円で金沢町の職人が請け負ったと記しています。
さらに、碑上に高さ1丈8尺の日本武尊の神像をすえるそうで、その鋳造は越中高岡の銅工が3,000余円で請負、その総工費は1万100円の見積もりで近く落成の上は大祭典を執行し、東西両本願寺の大教正を招請するはずたと記しています。
(台の石組は、玉泉院丸のものだけでなく旧藩老奥村邸の滝壷のものも用い、コンクリートを使はずに積み上げ、俗説では、積まれた「なめくじ」「へび」「がま」形の石が三すくみの緊張感で崩れないのだといわれています。銅像の高さ5,5m、重さ5t、台の石組みは6,5m)
明治13年(1880)10月26日から30日までの5日間、東西本願寺の法王を招請して盛大な祭典が厳修されたと伝えられています。その時、明治天皇から御下賜金一封100円、前田慶寧公700円、前田斉泰公250円、東本願寺2、000円、西本願寺外回り24間の石柵、寄付はその他多数。
(日本武尊像の解説)
(つづく)
参考文献:「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行、他