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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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ヒューマンスケールの金沢(親しみ)

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【金沢市】
前金沢市長の山出氏は「金沢らしさとは何か」のなかで、ヒューマンスケール(親しみ)を第一に上げられ、ほどよい規模の町だとおっしゃっています。金沢の旧城下はお城を中心に何処へ行っても歩いて30分以内で行けること、しかも、道は狭く向かい側との会話も可能で、スペースとしての広見、寺や神社の境内など、昔からの金沢らしいコミュニティのあり方やその空間も金沢の特色だと強調なさっています。


(近頃は、歩いて行けるところへもマイカーを乗り回す横着者に眉をひそめ、金沢の町をズタズタにしないかと心配なさっています。)



(今の金沢城橋爪門)


(今の金沢市内の一部・兼六園より)

金沢の旧市内は、ご存知の通り藩政期の金沢城下をそのまま受け継いだ町です。幕末の面積を計測すると約10k㎡(人口明治4年123,363人)で、明治22年(1889)市制が施行されたときの市域面積は10,4k㎡(人口95千人)と記されていて人口は29千人減っているものの、市域は、ほぼ金沢城下そのままが金沢市になりました。


≪参考≫
大正 2年・市域  10.40k㎡  人口129千人
大正14年・市域  20.05k㎡  人口147千人
平成24年・市域 468..22k㎡ 人口462千人


金沢に限らず城下町は、お城を中心に町が広がっている場合が多く、金沢城下の10k㎡の町は、お城を中心とした円とみなすことができ、その10k㎡の半径は約1,8km。歩行時間は単純に30分以内ということになります。厳密にいえば城の半径が約400mですから、城から町端まで1,4kmで歩行時間は20分以下。当時日本随一の百万石の城下町であってもこの程度のスケールであったのです。



(藩政期、半径1,8kmの金沢城下)


今、その距離を車で移動すれば2~3分というところです。歩行を交通手段として計画されたまちづくりですから、現代の都市とは大違い、もともと城下町はヒューマンスケールであったわけです。






(城下町)


(ヒューマンスケールとは、物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなども含め、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを物差しにして考えることで、人間の感覚や動きに適合した適切な空間の規模や物の大きさのことであり、人間が中心だということです。)




(今も残るヒュウーマンスケールの街並)


現代が目指した都市は、「車」を最優先する「モータリゼーション社会」や、「資本」を最優先した巨大都市で、脱ヒューマンスケールで、どこも同じような建物が並ぶ規格化された社会です。それが巨大化すると人間疎外に陥りことを知り、やがて「人」を中心とした「ヒューマンスケール」のまちづくりが何よりも大切だったことに気づきはじめます。



(変わる街並)

話は変わりますが、私も、今まで何気なく便利で乗っていた「ふらっとバス」に思いが至りました。今となれば金沢でも「車」依存からの脱却は難しいとしても、依存度、渋滞の軽減へのアプローチとして、ヒューマンスケールの「ふらっとバス」の導入は「歩く」視点に立ったまちづくりの一環として取り組まれていることに気づかされます。




いずれにしても、金沢は400年以上も戦災に遭わず、藩政期からの道が今も多く残り、小路に入ると、進入禁止や一方通行が多く、ややこしくて観光客は当然としも市民でも場所によっては車では走りにくく、反面、歩くのが楽しい町であることは確かです。




(「金沢の気骨」を読む会の報告書)


山出氏は「全てがヒューマンスケール」とおっしゃっています。「全て」とは「いっさい」「全部」ということでしょか、そしてモノもココロも・・・。それで無ければ金沢らしさではないのかも・・・。


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