【金沢・兼六園】
兼六園には、藩政期に造られた伝説の石橋があります。造られた時代はそれぞれに違いますが、使用されている石は、金沢城の石垣と同じ戸室石です。いずれも橋にまつわる言い伝えや由来、伝説が多くて、観光ボランテティアガイドとしては、伝えたい話があり過ぎて悩まされます。
≪黄門橋≫
黄門橋は、青戸室石の一枚石で造られた石橋で、一枚岩で単調にみえることから、石を二枚重ねたようなデザインが施されています。また、橋の特徴としては、普通の橋は台石の中央に程よい位置で架かっていますが、この橋は台石の端から斜めに斜角115度の反り橋で白龍湍に架かっています。シュチエーションは、急峻な渓谷を模し、兼六園の六勝でいう幽邃(ゆうすい)蒼古(そうこ)が演出され、周りの景観に溶け込むように工夫されています。
(全国の日本庭園の中では橋の長さでは4番目だそうです。長さ5,95m、幅0,99m、厚さ、0,43m)
(橋げたが一枚岩ですが二重に見えます。)
(橋げたには冬に菰を懸けます。)
「黄門橋」の橋名ですが、明治になり兼六園に明治天皇が来臨されることになり、急きょ名付けられたものらしく、古図に描かれているものには石橋(しゃくきょう)と書かれているそうで、謡曲の石橋(しゃくきょう)の能舞台をこの場所に写したものといわれています。また、謡の「石橋」は文殊菩薩の霊獣とされる獅子が舞う話で、橋のたもとには獅子の形をした獅子巌があります。
(大梁公(11代藩主治脩公)手記の安永3年(1774)5月10日の記事に、蓮池庭から揚地へ行こうとして、滝の上に上ると石橋の辺りが見え、滝の落口に獅子の自然石を見つけたことが書かれています。「・・・然所石橋の邊不図存付よく見候所、滝の場所有。落口に獅子の自然石有。其勢ひ誠に妙也。かかる名石有とは聊心付ず。・・・」と治脩公が石橋から獅子巌を見つけた時の様子です。獅子巌は、その頃何処にあったのか?滝は翠滝のことですから、そこから移築されたものか?また、この記事は獅子巌に付いて書かれたものですが、石橋が書かれていることからも、以前から石橋があったことが分ります。推定の域をでませんが5代藩主綱紀公が作庭した蓮地庭の頃から石橋がここに有ったものと思われます。)
(黄門橋の看板)
「黄門橋」の黄門というのは、唐では中納言のことをいうそうで、3代藩主利常公の官名が中納言だったことから、明治になって名を付けることになり利常公が架けたものと考え「黄門橋」になったのではと伝えられています。しかし、利常公は蓮池庭の作庭に関わっていないのですから「黄門橋」というのは間違いでしょう。
(他に手取川の「黄門橋」との所縁を伝える話もありますがこれも眉唾もの・・・。)
≪虹橋≫
虹橋が架けられた時期は分りませんが、天保末から弘化年間(1844~1848)に描かれたと推定される「竹沢并蓮池御庭御囲之図」には、水樋上門の竹沢御庭側に、それらしい橋が架かっています。また、竹沢御殿が、ほぼ解体されてはいるが蓮池庭と竹沢御庭の境に塀が残る安政3年(1856)に描かれた「竹沢御屋敷総絵図」にも虹橋らしき橋が描かれています。さらに文久年間(1861~1863)に描かれたという、13代藩主前田斉泰公が造営した兼六園の様子を伝える“兼六園、法眼佐々木泉玄筆”といわれる「兼六園絵巻」には徽軫燈籠の後に虹橋が描かれています。
(兼六園絵巻は、今は石川県歴史博物館の所蔵ですが、それまでは「満花城の図」とよばれ、富山県城端に住んだ野村淳(号満花城)が所蔵していたもので、昔は天保の頃に描かれたものといわれていましたが、現在はもっと後の文久年間に描かれてものとされています。また、絵図には「竹沢御庭 琴柱燈下」と名付けられていて、描かれた頃は「琴柱」と書かれていたことが分ります。)
(虹橋)
(小滝に落ちる水を、琴の弦に見立てられています。)
虹橋は、別名琴橋ともいわれ、橋を琴に見立て脇にある徽軫燈籠(ことじとうろう)の足が、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと伝えられていますが、明治の初め兼六園が一般開放されてから何かの理由で倒れ、燈籠の右足が折れ短く不均衡になります。それが、アンバランスの美といわれるようになり、かえって人気になり、今や兼六園のシンボルになっています。
(虹橋に座り込む外人)
(真ん中下の白い石の後ろに折れた石)
(徽軫燈籠は、兼六園シンボルという以上に、石川県や金沢市のシンボルとして有名で、書かれたものも多く、特に元兼六園事務所の所長で兼六園の研究家として著名な下郷稔氏の著書など、事実や伝説、言い伝え等々、いつかまとめてブログに書こうと思っています。)
(春、旭桜と雁行橋)
≪雁行橋(かりがねばし)≫
別名“亀甲橋”とも音読みで“がんこうばし”ともいわれています。11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった橋です。また「亀甲橋」というのは、石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることからで、昔は、この橋を渡ると長生きするとされていましたが、石の磨耗が著しいため、昭和44年(1969)に通行できなくなっています。
(渡ると長生きするというのは、亀は万年と喩えられていることもありますが、隠居した12代藩主斉広公が城から駕籠で竹沢御殿に御渡りに際し、雁行橋の西にある駕籠石(かごのプラットホーム)で草履を履いて雁行橋を渡るとき、長寿を願いつつ渡ったという言い伝えによるものだといわれています。)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著、2006,12桂書房発行・下郷稔氏のガイドツアーの資料など