【金沢市】
山出氏の金沢らしさの三つ目は、「金沢はあらゆる面で、ハイグレード、ハイクオリティ、ブランドイメージ」を追い求める町だと言い、この背景として、金沢が武家社会であったこと、武家社会は格式を重んじ“いい加減”なことをゆるさない町であり、また、藩政期「天下の書府」といわれ今も学都で、美術工芸王国であることも、“いい加減”なことが出来ないことにつながっているのではおっしゃっています。
武家の矜持が「いい加減なこと、生半可なこと」が許されないということ、それに加えるならば、3代利常公は、時の流れから藩の政策も武力から文化へシフトし、当代一流の学者や工人が金沢に招かれ、その影響力は武家だけでなく城下の町人の間にまで広がり、その時代からすでにハイグレード、ハイクオリティが求められ、現在においても、そのことが「市民の誇り」になっているといいます。
その基となったもの一つに、千利休の茶道の精神や美意識が考えられます。それを経済政策に取り入れた信長から前田利家公に受け継がれ、以後、利常公、綱紀公によりさらに洗練されます。それが代々の藩主に受け継がれ、その美意識や価値基準にこだわります。それは他の地域と一線を画したもので、造られるものはもちろん素材いたるまで、質が高く、吟味されたものだったことは残された当時の設えや作品を見ればよく分ります。
(特に美術工芸では、後世、思想家柳宗悦が金沢の工芸は「貴族的工芸」だと言ったといわれていますが、単なる“もの”ではなく、昔からハイグレード、ハイクオリティが求められていたことが窺えます。)
藩政期の文化は、何処の地域でも京や江戸から大名によって地方にもたされたものです。金沢も同様で前田家が加賀、能登、越中を治めるようになり、武具や城郭の建築、それに付随する装飾を造る芸術家や工人が金沢に招かれ、その技術がこの土地に定着しました。
(3代利常公や5代綱紀公の時代からは御細工所が設けられ、幕府へのカムフラージュのため武器から工芸品も造るようになり、藩は文化政策を奨励するに至り、制作される作品や製品は前田家の自家用の調度や贈答品になったといいます。)
(今も残るお屋敷)
一方で、前田家は一向一揆の後遺症から明治維新まで、惣祭など屋外で多くの人が集まることが禁じられ、人々はことある毎に上級武士の家や裕福の町人の家に集まるようになり、多くの人を招くことから、前田家出入りの職人に調度品を作らせ、料理をだし、謡の稽古をして家を訪れる人々に聴かせるなど、今風にいうとパーティ文化「お呼ばれ」が広まり、工芸への需要が広がったといわれています。
(金沢そのもの!?)
山出氏がおっしゃる“ブランドイメージ”ですが、本来、ブランドとは商品の銘柄に対して世間やお客様が抱く印象という事ですから、金沢で作られた商品やサービスを指しものということなのか、よく分りませんが、多分、昨今提唱されている地域や自治体の名称自体をブランドと考える「地域ブランド」と理解すれば、金沢は、自然環境、伝統文化、歴史の積み上げが他の地域と違い独自の個性をもつ“金沢そのもの”がブランドとしての潜在力が確立されているように思われます。
山出氏は、それらにこだわり、さらに追求することが「金沢らしさ」だとおっしゃっているのでしょう・・・。
参考文献:「金沢の気骨」を読む会報告書2014年12月発行など