【金沢・兼六園】
兼六園の橋は、数えて見ると35橋。私が知らないだけなのか、名前の無い橋は19橋もあります。今回は今まで取り上げた6橋の外、名前を知られている10橋の内、園外と千歳台の橋とこの周辺にある名前の知らない橋を紹介します。
(千歳台というのは、曲水に架かる千歳橋から名付けられたといいます。竹沢御殿造営時、4000坪におよぶ竹沢御殿の敷地でしたが、13代藩主斉泰公により、現在の形に整えられたもので、豊かな水量の霞ヶ池や巨大な明治紀念之標がある広々と明るい千歳台は、兼六園のメインステージであり、六勝の「宏大」を体感させる場所です。)
(兼六園の橋図・黒、赤は橋名があり、緑は橋名なし)
≪金沢神社前の神橋≫
神橋は、辰巳用水が金城池(放生池)に引かれている金沢神社の石段下に架かっています。戸室石の反り橋で、側面は一枚石を橋桁と橋板の二枚重ねに見せています。欄干は坪野石で欄干柱の頭には宝珠風に形ち造られています。橋の存在は余り目立ちませんが、歴史を感じさせる古橋で、神社の境内に相応しい雰囲気をかもし出しています。
(神橋)
(この社は、11代藩主前田治脩公が寛政6年(1794)に、現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を創建されました。文政7年(1824)12代斉広公が、竹沢御殿の御鎮守竹沢御殿御鎮守天満宮としますが、幕末に一時卯辰山に遷宮されます。明治になり金沢神社として一般の人々が自由に神社を参拝できるようになったのは、明治7年(1874)5月7日、兼六園が一般公開されてからです。)
≪土橋≫
山崎山の麓、辰巳用水の取り入れ口の直ぐ下にあり、橋は曲水に対し斜めに架けられています。橋脚は水の流れに添った石の菱柱で、石の橋桁の上に丸太が並べられ土で覆われた石橋風の土橋です。架橋は文政2年(1819)から5年(1822)頃といわれています。
(土橋)
(橋の上からの景観は、山崎山周辺の六勝の一つ「蒼古」を感じさせ、春秋には、新緑、紅葉の見所の一つ。辰巳用水が山崎山の下の岩窟から抜ける様は渓流を思わせ、水分け石に当たり流れる曲水は、川幅いっぱいに流れキラキラ輝き、そのまま園内に水泉の美を運びます。)
≪明治紀念之標前の石橋≫
この橋は、明治13年(1880)に建てられた明治紀念之標の石橋で、赤戸室石の反り石を13枚揃えて架けた重厚な橋で石野某が作り、欄干(越前笏谷石)に施された龍の透かし彫りは、明治の名工福島伊之助作といわれています。
(明治紀念之標前の石橋)
(明治紀念之標右の無名の橋)
(明治紀念之標の左無名の橋)
≪板橋≫
船底板で造られた橋で、三河の八つ橋を模したという板橋です。当初のものとは姿が変わり、今は曲水の真ん中で橋を違へた違い橋になっています。春は桜が美しく、5月に杜若(かきつばた)が開花すると、曲水の両側に群生する紫の花と緑の葉が素晴らしい眺めになります。昔はこのあたりに勅使橋が架かっていたといわれています。
(5月板橋)
(勅使橋は、昔の絵図では木造の反り橋で、大正の中頃まで存在が確認されるそうで、時代は定かではありませんが、聞いた話では成巽閣で休憩あるいは泊まった勅使が、この橋を渡って兼六園を回遊したことから勅使橋といわれたとか・・・。)
(板橋の向こうの成巽閣)
≪千歳橋≫
千歳橋は、千歳台の中央にあり、兼六園の六勝の一つ「宏大」が感じられる場所に架かっています。橋は曲水をまたぎ、昔は、橋の敷石が「くずれ四半袈裟模様」といわれるものになっていたといいますが、現在は亀甲模様になっています。架橋は幕末文久の頃(1861)といわれています。
≪木橋≫
昔、ここにあった橋は何時の頃か無くなっていました。昭和44年(1969)雁行橋が渡れなくなり、観光客が渡る代替橋として架けられました。文久の頃(1861)頃の絵図には、この場所に今と同じ様式の木橋(旭橋)が架かっています。また、以前は通行が出来た唐崎の松の下の通路を松の根の保護から通行止めになっていることから、千歳台と眺望台を結ぶ唯一の橋で、何時も多くの観光客で混雑しています。
参考資料:「兼六園全史」「特別名勝兼六園」「兼六園の古今」等々