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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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金沢人気質(かたぎ)④

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【金沢】
「金沢人気質」では、聞いたり読んだ話を長々と書き連ねてしまいました。今回で終わります。一言多かったかも?多少、反省しています。これも私の郷土愛の発露が書かせてもので、言い訳ですが、けっして金沢人を虚仮にしているもので、恨みがある訳でもありません。誤解のないよう願うのみです。


(このような「金沢人気質」には、要因というか、原因と思われる幾つかについて、最後に、またまた聞いたり読んだ話を書き連ねます。)



(金沢らしい?兼六園の暮色・・・)


≪一向一揆「負け犬根性」≫
「百姓の持ちたる国」という栄光?の反面、根絶やしを目指した信長の過酷な殺戮から生き残るためには、多くの門徒が逃げたり寝返ったり密告者となったと伝えられています。その生き残りの民衆が金沢の町に定着し、現在、金沢に住む多くの人は、こうして生き残った子孫だという話です。親から子へ、子から孫へ言い伝えられた教えからか「権力に弱い」とか「排他的」と言われています。確かに家が真宗大谷派という家が多く、我が家も、今は家の宗派というだけで信者とは言えませんが、私にも多くの影響を感じます。



(真宗寺院)


≪加賀百万石「殿様依存性と百万石気分」≫
今、金沢人というのは、明治以後、近郷から流入した人の子孫や能登や富山県から移し住んだ人が多いのですが、それでも人々は、百万石を背負っているように見えます。「郷に入りては郷に従え」のことわざにもあるように、地元に合わせたほうが生きやすいというか、合わせて乗っている内に百万石気分が、移ってしまったのかもしれません。それにしても、おかしな話で、散々搾取された近隣の百姓の子孫たちが「百万石」を誇るのはちょっとどうかと思います。



(百万石のお城)


私たちが若い頃は、金沢の枕言葉は「百万石の金沢」より「森の都金沢」と言われたものです。「森の都」は仙台と言われるようになってしまってからは、トンと聞かなくなり、私など、近隣の百姓の子孫としては、時には、何とも歯がゆい思いをしながら、観光ボランティアガイド「まいどさん」として「百万石の金沢」を自慢げに語っています。



(森の都)


≪幕末の出遅れ「自国の事しか関心がない」≫
イギリスの外交官アーネストサトウの見た幕末の石川に”彼ら(加賀藩士)は大君の政府は勿論存置せしむべきであって、薩摩や長州は他の諸藩と提携して、全然これを廃止すべしと言っているようだが、それはよろしくない、しかし同時に、大君の政府の権力に対しては当然制限を加える必要があるだろうと述べた。””彼(加賀藩士)らは、私のパンフレットを読んでいて、あの説には全く同感だといった。そう言われて見ると、私たちとしても加賀藩の意見には完全に同意であると答える以外はなかった。”と・・・。


(金沢・犀川辺り・・・)


そして、”加賀藩は政治思想の中心地からかなり遠ざかっているので、南西諸藩の抱負を認めてそれに共鳴するということはできなかったのだ。””彼らは、日本中でも無知と非文明の本場だと常に思われてきた北部の海岸地帯に、孤立の状態で置かれていたのである。”と書かれています。


したがって、”自藩の事にしか関心をもっていなかった。加賀の大名(前田慶寧)の有する土地は、他のいずれの藩主の領土よりもはるかに大きな歳入があると見られている。そのため、加賀藩は世間一般からその貫禄を認められており、自らもそれに満足していた。したがって、日本の政治組織の変革なぞは加賀藩にとっては殆ど益するところがなく、心の底では政治の現状維持で満足していたのである。”とあります。



(金沢・浅野川辺り)


≪北陸の気候「湿潤な気候―穏やかの気質と陰湿な性格」≫
11月中旬から3月中旬まで、空は厚い鉛色の雲に覆われ、近年、雪も少ないものの1・2月は、まだ雪に閉じ込められがち、年中「弁当は忘れても傘は忘れるな」と言われるように、高温多湿で雨の多い土地柄のためか、人は消極的で他人から言われて初めて行動に移る性格に繋がっているように思われます。


(金沢の鉛色の空)


反面、その湿潤な気侯が、穏やかな金沢人気質に大きく影響しているようで、その為か、あまり派手なことを好まず、どちらかというと、内に秘めるタイプが多いように思われます。湿潤な気候は、陰湿な性格も育むのではないかと思わせることから誤解されることが多いのでは・・・。



(金沢の雪)


≪明治期の衰退「因循姑息、暢気、保守的」≫
明治18年の記録や新聞には、金沢の人口の10分の1が、その日の暮しにも差し支える貧民だったと伝えて「零落困頓(こんとん)して、零落其極に達し、金沢の衰微年一年より甚だしきを加える」とあります。また、“百万石気分”がはびこる市民性の改善が金沢発展の鍵とも言われ、当時の市民の多くは性格がのんびりしていて、古い習慣や方法に従い改めようとせず、その場しのぎでぐずぐずしていて積極的になれない、それで当時の金沢のリーダー達は、市民の郷土愛を煽り、かってのような大金沢をめざそうとするが、市民は大金沢を望まず期待もしていなかったという。



(金沢城の橋爪門続櫓)


昔の資料を読みながら、書きながら、”う~ん、アルアル”。一部ですが、自分のことを言われているような気がしてきました。


これで、「金沢人気質(かたぎ)」は終わります。


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