【金沢・兼六園】
日本三名園とは、優れた景勝を持つ日本の三つの大名庭園を指しています。金沢の「兼六園」岡山の「後楽園」水戸の「偕楽園」をいいますが、数ある日本の庭園から何故、また、どのようにして、この地方の三つの大名庭園が選ばれたのか、その選定基準はよく分らないので調べることにしました。
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(栄螺山)さざえやま
明治43年(1910)の文部省から発行された「高等小学校読本」の教科書、目録第六課公園に「水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ガ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ、高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園二優レリ。」とありました。
(その教科書の口絵の写真は、三公園と栗林公園が載っています。教科書では公園と呼ばれていますが、その後、公園として造成された公園が各地に誕生し、昔の大名庭園が公園のイメージと反することから“名園”という呼称が用いられ、現在は「日本三名園」と呼ばれています。)
明治の庭園史家小沢圭次郎氏は「明治庭園記」に、偕楽園、兼六園、後楽園を日本の三公園と称することに疑問を投げかけ、兼六園については「固より論無し」と述べ、他は栗林公園には及ばないというようなことが書かれています。
(固より論無し:もとより言うまでもない)
小沢氏の話も含め調べた範囲ですが、明治のある時点から三公園の表現が出てきたもので、「三公園」という名称が生まれたのは皇室と深く関わっているのではないかという説があります。それによると、事の始めは明治18年(1885)明治天皇が関西視察の折、後楽園に立ち寄られ「夜も見たい」と言ったのに反応した東京の記者団が、後楽園のことを大々的に報道した事にあるらしい・・・。
このことが後楽園を一躍有名にし全国に広まります。明治24年(1891)には岡山への鉄道の延伸もあり、後楽園の見学者も増大します。ならば皇室に関わりのある公園はという事になり、明治11年(1878)、明治天皇が北陸御巡幸で金沢の兼六園を御視察され、水戸の偕楽園には明治23年(1890)昭憲皇太后が行啓されていることから三公園といわれるようなったものと思われます。
(因みに、明治天皇は明治5年(1872)に同じ香川の丸亀に御視察していますが、栗林公園には行幸されていません。)
別の資料によると「三公園」という名称は、明治20年代前半には、すでに使用されていたという記述があるらしい、また、明治43年教科書の出る前の明治37年(1904)に、外国人向けに発行された写真集にも使われているそうです。
(雁行橋と木橋)
それは外国人向け観光PRで、正式な手続きにもとづいたものかは疑問ですが、この時代、全てが国策ですから、暫定であったとしても、誰かがそれなりの基準を設けて格付けされたものと思われます。
(その他知りえた範囲で、三名園の基準は、当事者やマスコミなどの「・・・といわれている」という表現はありますが、公的、客観的な選定根拠は見当たりません。)
(つづく)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房2006年12月発行ほか