【金沢駅前木の新保辺り】
北陸新幹線の金沢開業まで10日を切りました。ここのところ金沢は全国的に注目されマス媒体への露出が、余りにも多いので、知らなくて録り忘れたテレビ番組も随分あります。私はといえば新幹線に乗る予定もないので、記念に富山まで行ってこようかと思うくらい、いい歳をしてテンションが上がっています。
開業の日は駅周辺で多くのイベントが用意されていて、私も駅周辺の「古地図めぐり」のガイドの仕事を戴き古地図に描かれている周辺を少し調べています。語るだけですから深く調べることもないのですが、調べ出すと、当時、お城から遠い町外れだった金沢駅周辺に数千石を拝領する人持組の大身の侍屋敷が何家も立ち並んでいることに興味が湧き何時ものくせで必要以上に拘ってしまいました。
(安政年間の駅周辺絵図三田村家は鼓門辺りか・黒線は明治以後の道路)
≪金沢駅周辺の人持組の居屋敷≫
三田村家(3300石)浪人であった三田村定長は娘“町”が綱紀公の側室となった縁で100人扶持となりまず。“町”は5代藩主吉徳公の生母となり、その弟孝言は吉徳の叔父として人持組4000石に登用されました。その孝言は刃傷事件を起こして知行召上となり、改めてその子定保が3000石を与えられました。家紋は鶴ノ丸。
前田図書家(7000石・藩主一門)前田利家の六男利貞が初代。代々定火消や家老に列しています。家紋は角ノ内梅鉢。
(都ホテル・前田図書家か、当時の建物は今の宝円寺の仮本堂)
前田監物家(3000石・藩主一門)前田寄孝が初代。七日市藩初代藩主前田利孝の三男。加賀藩4代藩主前田光高公に藩主一門として召抱えられ、3000石と上屋敷と下屋敷を拝領し、廃藩まで代々人持組として仕えました。家紋は丸ノ内立葵。(今の内灘方面の交差点か)
玉井家(5000石)支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。(今の全日空ホテルか)
篠島家(2500石)前田利家公の甥前田秀継やその子利秀は今石動の城主でしましたが利秀没後、家臣の篠島清了が利長公から3000石を与えられ今石動を治めたちいいます。幕末の侍帳には、人持組篠島鍛冶郎2500石の記載があり幕末まで加賀藩に重く用いられたといいます。(前田図書家隣)
私の疑問は何故、町端に大身の人持組の五家もの居屋敷が在るのかということなのですが、何を調べれば良いのかも皆目見当が付きませんでしたが、何年か前に趣旨が少し違いますが玉川図書館の近世史料館で開催された「加賀藩侍屋敷」の資料を参考に記します。私の思付で全くの推測です。
(鼓門下,金沢兼六園口駅前)
前田図書家(7000石)の屋敷は、安政の絵図によりと現在の金沢駅前に当ります。延宝図ではこの家の屋敷は尾坂門前の八家前田対馬家(17000石)の隣にあり、惣構の外にあった下屋敷近くの現在地に移っています。この地は、伊予西条城主一柳監物が、幕府から封を除かれ、加賀藩に預けられた時の屋敷地の一部だそうで、そこに然るべき土地があったからでしょうか?
(延宝金沢図(1673~75)駅前辺り・一柳居舘は前田図書家と三田村家)
(監物は元禄15年(1702)に亡くなっていることから、その後に移ったと考えられますが、この地の面積は約2200坪、万治2年(1659)の定では7000石の場合1400坪ですが、800坪程多くなります。)
お隣の「前田将監(3200石)」屋敷地は、延宝図では「前田権之助下屋敷」とあり、元の居屋敷は惣構を挟んだ東末寺の向かい在ったそうですが、藩政後期以降では、居屋敷と下屋敷の場所が入れ替わり、城から離れた所を居屋敷としています。
(居屋敷は直臣の侍屋敷で、下屋敷は3000石以上拝領の人持組に限り陪臣といわれる家臣を住まわせた地域で、家中町(かっちゅうまち)とも言われました。この「下屋敷」の存在は金沢城下町の特徴の一つといえます。)
慶長16年(1610)の定では、下屋敷について「此已前之屋敷之通、惣構之外ニ而可遣候事」とあり、下屋敷は外惣構の外に配置され、下屋敷を拝領できる藩士の居屋敷が、惣構の外にある下屋敷やその周辺に移っており、城との遠近より屋敷地の広さを求めたのではないかといわれています。
(石高に応じた面積については、慶長16年(1610)では一辺(何間)×一辺(何間)で、万治2年(1659)では坪数で表記されていますが、基本的な面積は変わっていないそうで、石高に応じた面積と屋敷地の面積は必ずしも一致しないことや屋敷地の移動など様々なようです。)
参考文献:平成25年新春展「加賀藩の侍屋敷」資料玉川図書館近世史料館・「金沢古蹟志巻二十七」森田柿園著等