【金沢・兼六園】
昨今は、兼六園といえば「徽軫(ことじ)灯籠」。「徽軫灯籠」といえば兼六園といわれていますが、明治27年頃、兼六園といえば「旭桜」で、当時の兼六公園誌の地図には虹橋は描かれていますが”徽軫灯篭“は影も形もなく名称すら書かれていません。いずれ「徽軫灯籠」について書こうと思っていますが、今回は雪見灯籠の変形として紹介します。
今、兼六園には、平成に入って造園された時雨亭の雪見灯籠や徽軫灯籠のように雪見灯籠の変形といわれる灯籠も含めて雪見灯籠は10基あります。園内の灯籠の半数近くが雪見灯籠で、雪国ならではの特徴で、雪の湖畔にいっそう趣を醸しだしています。
(龍石の大理石の雪見灯籠、水際に無いのが不思議・龍は水を呼ぶ?)
(金城霊澤の横の多田家寄贈の奉納灯籠・雪見灯籠の変形)
雪見灯籠の大きな笠は、傘を広げた上に雪が積もった形に似ているので雪見灯籠という説もありますが、火袋に明かりが入った姿が近江八景の浮見堂に似ていることから、それに因んで作られた浮見灯籠が訛って雪見灯籠になったといわれています。水面に浮いて見えるので“浮見”、点灯した時にその火が浮いて見えるので“浮火”が雪見灯籠の原点だそうです。
(六角形の笠、御影石の白い雪見灯籠・雁行橋上)
この灯籠は神社等の献灯用のものとは全く形式が違い、庭園で鑑賞するものとして発達したもので、笠と火袋の下にある竿と中台が無く高さがなく、主に水面を照らすために用いられるので笠が大きく、多くは水際に設置され、足は3本や4本のものが主流です。したがって足が2本の徽軫灯籠は変形といわれているのだそうです。笠は、丸いのが丸雪見といい六角形のものは六角雪見といわれています。
(長谷池の男滝の雪見灯籠)
(長谷池の女滝の雪見灯籠、池は2代目金沢市長長谷川準也屋敷にあった池)
ここで灯籠の成り立ちに触れますと、もともと仏教の伝来によって仏寺建築が日本でも施工されるようになり、仏像に清浄な灯りを献じるために仏堂などの前面に配置されました。奈良の唐招提寺に見られるように、伽藍の中軸線上に1基置かれるのが通例だったようです。そのため、左右非対称の伽藍には灯籠の遺構は見られず、中軸線が確認できる伽藍においてのみ確認されているそうです。
(中国・朝鮮半島を経て入ってきたのですが、現在は中国では遺例が極めて少なく、朝鮮でもその形状は、今の日本各地に見られるものとはかなり違うそうです。)
(明治時代、明治祈念之標の献灯に気持ちを込めて日本武尊銅像の両側に置か
れたもので、左側の物は不埒ものに盗まれ、今は右の雪見灯籠が残っています)
それに比べると、日本庭園の石灯籠は、はじめ寺院に据えられた石灯籠が、平安時代になると神社の前に献灯として奉納されようになります。庭園に用いられるようになったのは桃山時代、茶人が夜会の照明用に露地にとり入れるようになり、のち茶人の好みに応じて作られたり、社寺献灯された名灯籠を本歌として模刻するなど、照明用としてだけでなく、庭の添景として鑑賞されるようになり一般庭園にも用いられるようになったといいます。
参考文献:「特別名勝兼六園」1997・橋本確文堂発行