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徽軫灯籠(ことじとうろう)②

【金沢・兼六園】
徽軫灯籠は、粟崎の木谷家が献納されたものといわれていますが、いつ頃ここに据えられたのかよく分りません。加賀藩御抱絵師法眼佐々木泉玄による「兼六園絵巻」の長短2巻の1巻には竹澤御殿琴柱燈下(徽軫灯籠)が描かれていて、描かれたのは万延、文久(1860~64)頃のものといわれています。


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(秋の霞ヶ池と徽軫灯籠)

他の古い絵図を調べると、水樋上門や塀が取り壊され、霞ヶ池が現在のように拡張され竹澤御殿と兼六園が一体化されたのが万延元年(1860)ですから、私は、泉水や反橋工事に合わせて塀の撤去工事が行われた安政6年(1859)から万延元年(1860)に立てられたものと勝手に推測しています。


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(兼六園絵巻の徽軫灯籠)


(安政3年(1856)の「竹沢御屋敷総絵図」には、竹沢庭と蓮池庭ははっきり水樋上門や塀で仕切られていて、水樋上門の前の曲水に灯籠が描かれていませんが2橋並んで描かれ霞ヶ池に蓬莱島がなく、私の見方で現在のところ根拠は有りませんが、灯籠が無さそうです。そして文久3年(1863)以降に描かれた「兼六園図(大友文庫)」にはあるはずの灯籠が描かれていませんが、明治以後の図でも、有るはずの灯籠が描かれていないのもありますので、描かれていないからといって無かったとは断言できません。)


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(徽軫灯籠四景)


また、献納者について、木谷家ではなく向粟崎の島崎徳兵衛ではという説があります。木谷家の親戚筋で、互いに海運業で財を成した家柄だったといいます。昭和42年刊「名勝兼六園―その歴史と景観」の“灯籠と石塔“の章に「木谷家より藩侯に献上されていると伝えられているが、実際には島崎家よりの献上である。」と書かれています。が、はっきりした根拠がないといいます。


(古くは明治27年(1894)に書かれた医師で藩政期藩校「明倫堂」の先生だった小川某が書いた「兼六公園誌」の千歳台の章に「・・・汀に徽軫(ことぢ)灯籠粟ヶ崎の商木谷某の献ぜし物を植(ら)つ。・・・」とあるそうですが、これも根拠は知りませんが、現在のところは木谷の献納ということのようです。)


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(徽軫灯籠の図面)


次は、徽軫灯籠の名称の謎です。“徽軫”と書いて“ことじ”と読ませます。ルビーでも付いないと読めません。中国の琴で“きんのこと“というのもがあり、琴の胴に13の印をつけそれを左指で押さえ、右手で旋律を奏でるそうですが、その印を”徽“といい、弦の張り具合を調節するものを”軫“と書くらしく、この2字は、それぞれ琴の音程を調節する「琴柱」同じ役割をしることからこの字を当て「徽軫(ことじ)」と呼ばせたものらしく、この字を使い始めたのは定かではありませんが、「兼六園絵巻」が描かれて以後であることは確かです。


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(初秋の徽軫灯籠)


こんな難しい名の命名者は、有名な藩政期の文人画家で漢学儒学に通じ、また琴の名手であった浦上玉堂という説があります。玉堂は加賀藩士寺島蔵人を訪ねて来沢したのは文化5年(1808)の秋、また没したのは文政3年(1820)9月4日であり、「兼六園絵巻」の描かれた40数年も前のことでありガセネタであることは明白です。


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誰が何時そのような難しい名前を付けたのでしょうか・・・?



参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著桂書房平成18年発行・「兼六園と徽軫灯籠」下郷稔著など


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