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兼六園の寄石灯籠と有名な灯籠

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【金沢・兼六園】
≪寄石(よせいし)灯籠≫
寄石灯籠は園内に二基あります。一つは、山崎山の北西、土橋の脇にある素朴で武骨な灯籠です。宝珠がなく富士山型の笠、火袋は赤戸室石で造られた不規則な八面で、不規則な丸い火口が3方向にあります。坪野石の中台は六角形に整形されていて、脚は自然石で中心がずれていますが低いので不安定さを感じさせません。一寸、面白い灯籠で、兼六園では、冬場、近くにある蓮華寺型灯籠と同様、菰を掛け大切に保護されています。



(山崎山北西の寄石灯籠)

(冬場の菰掛け)


(笠の裏の梅鉢風の窪み)


(戸室石は、花崗岩で石質的には角閃安山岩。前田家の留め石で、金沢城の石垣などに使われています。青戸室の石質が硬く、火山で噴出し酸化した赤戸室は比較的柔らかい石材で、今も戸室山で産出されています。坪野石は倉ヶ岳の麓、坪野で産出された黒灰色の石で非常に硬く、寄石灯籠の他、兼六園や城内はよく見られますが、現在は産出されていません。)



(刀キズといわれていますが?)


この寄石灯籠の来歴はよく分りませんが、笠の裏には前田家の梅鉢風の窪みがあり何やら謎めいています。何時、誰が言い出したのか分りませんが、キズ跡がある富士型の笠は、昔、見張りの武士が敵と間違えて斬りつけたキズだとか、また、この辺り一面がススキの原っぱで、灯籠に火が入るとススキの穂が揺れ、その不気味さから「おばけ灯籠」といわれたという言い伝えがあります。


(手前はサンシュユの木・後は西洋ヒバ)


(脇のサンシュユの木は春には黄色い花をつけ、秋に赤い実をつけます。後にある枝垂れた西洋ヒバ、そして土橋と相まった風情は、今や私のお気に入りの散策コースです。)




(内橋亭前の寄石灯籠)

(四角形と三日月の火口)

(日輪の火口)

もう一つの寄石灯籠は、内橋亭の右前にあります。高さは2,3mの大型のもので、宝珠と請花の部分がどっしりと大きく、直径1,5mの自然石の笠は苔むして草が生えています。赤戸室を使った火袋の高さは45cm。前と後の火口は四角形で、左側は日輪、右側三日月がくり抜かれていいます。中台は御影石で一辺がほぼ90cm、厚さ24cmでここだけが整形されていて、1mもある竿は細工なしの虫食い石が使われています。


(前と後の四角形の火口)

≪蓮華寺型灯籠≫
鶺鴒島の上流、曲水のほとりに立つ、園内唯一の蓮華寺型灯籠。高さは1,9m。笠の背が高いのが特徴。石質は、笠が御影石、火袋は越前石、中台は青戸室石とそれぞれ異なります。笠裏には「たるき」がつけられ、蕨手にあたる部分の先端に6個、中台の各面には3個ずつ定紋模様があるなど、技巧が凝らされた灯籠で、本歌は加賀藩家老今枝家所縁の京都の蓮華寺にあります。



(蓮華寺型灯籠)


●今枝家と蓮華寺
天台宗蓮華寺は、京都上高野にあります。もとは現在の京都駅付近にあったもので、寛文2年(1662)に、加賀前田藩の家臣今枝近義が再建したものです。近義の祖父重直の庵があった土地で、重直は美濃国出身で豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれ、晩年、得度し、宗二居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結びました。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせず寛永4年(1627)に死去します。孫の近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられています。


(蓮華寺は天台宗の寺院ですが、造営に黄檗宗僧が関わったことから、本堂は黄檗宗洋式で、その本堂正面には蓮華寺形灯籠として知られる2基の灯籠があります。この蓮華寺形灯籠は、茶人たちに好まれたといいます。)


(蓮華寺型灯籠の中台)

(冬季の菰掛け)

(蓮華寺型灯籠の竿)



≪月見灯籠≫
兼六園の曲水が霞ヶ池に流れ落ちる少し手前、卯辰山から上る満月を鑑賞するのに最も適したといわれる月見橋(玩月橋)のたもとに高さ2,1mもの月見灯籠があります。満月を象徴して、円と丸を基調に設計され、笠の中台も円く、四面の火口も丸形です。月見灯籠としては園内唯一で、石材は御影石で型は三州型といわれています。




(月見灯籠)


番外編:百間堀の面した茶屋に寄石灯籠がありました。



(万清亭前)


参考文献:「特別名勝兼六園」1997・橋本確文堂発行ほか


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