【金沢・東山界わい】
北陸新幹線の開業で、テレビなどマス媒体では、金沢の露出が多くなっています。特に「金箔」に関する情報が目立ちます。当然といえば当然で、陶磁器や漆器、友禅染などは全国にも幾つか産地がありますが、金箔となると、金沢以外に製造するところは皆無に近く、生産は全盛期から見れば減産ですが、現在、国内の金箔製造の99%が金沢産だといいます。
ご存知のように、金箔は「金、銀、銅の合金」を薄く延ばしたもので、5円玉を畳1枚に叩いて延ばすとか、厚さ約0.0001mmだとか観光のお客様に説明しています。しかし、金沢の地名の由来である芋掘り藤吾郎の”金洗沢“で知られる砂金伝説から、採集した金で造られるものと勘違いされ、お客様から「金」は何処で、とよく聞かれます。それで「何々貴金属工業」や「○○マテリアル」というのも夢が無いような気がして、ついつい、嘘ではないので、昔は金沢で採れたといってしまいます。
(実際には、15世紀頃まで、現在の金沢城や兼六園の周辺で砂金が採れ、今も犀川上流で採れるらしく、ある高校の先生が「ふるさと教育」の一環として生徒たちと砂金採集をしているそうです。2mm程度の粒が採れることもあるそうですが、それくらいでは、いくらの値打ちもないそうです。)
(金箔の看板・イメージ写真)
それから、よく言われているのが、金沢の金箔は、藩政初期から打たれ、その後、幕府が独占しますが加賀藩では密造を続け、後に免許を取得したと書かれたものがあり、いかにも藩政初期から密造が続けられていたように流布されています。この話は随分言葉足らずで、本当は一旦禁止され、文化期に再興され、弘化2年(1819)越野佐助が江戸の金座から売さばきと密造取締り免許を得たもので、その頃、一部の職人が密造したのを佐助が取締ったと言うのが真相のようです。
(金箔の工房・イメージ写真)
加賀の金銀箔については、よく知られているのが、藩政初期、文禄2年(1693)4月、朝鮮侵攻で肥前名護屋に在陣中の前田利家公が金沢城を預かっていた篠原出羽守に銀箔を、七尾城を預かっていた三輪藤兵衛に金箔製造を命じたもので、当時、七尾には金箔職人がいたことも古文書に書かれています。
しかし、幕府が貨幣鋳造権を独占するようになると、幕府は地金としての金銀の管理を強め、金銀箔の生産についても、元禄9年(1696)に箔座を設け生産と流通の統制を図ります。その後、さらに強化され金銀箔の生産は金座、銀座の管理下に置かれ、江戸、京都、大阪の三都以外では認められなくなります。加賀藩では元禄11年(1698)4月に幕府の政策を受け遵守しています。
加賀藩の金箔について書かれた昭和26年(1951)石川新聞発行の中村静治著「金沢箔のマニュファクチャーの展開と箔業近代化の停滞」を要約すると”表面上製造を中断“とし、”この規制の中で、幕府に隠れて箔を打った“という内容が書かれ、実際、箔を打ったという根拠が示されていません。一方「石川縣史」第3編では、幕府の禁止以後、必要に応じ江戸、京都より購入使用していると書かれていて、当時、隠し打などは無く、幕府の統制以後、金沢では製造が中断され、文化期に入り金沢城の再建で再興されたというのが真相ようです。
(つづく)
参考史料:「金沢箔の再興と「箔業祖記功碑」について」長山直治著・石川郷土史学会会誌第41号抜粋・2008.12.7発行