【東山界わい】
前回は、金沢金箔の製作は藩政初期から継続されてきたのではなく、元禄11年(1698)幕府が貨幣鋳造権を独占することで、地金としての金銀の管理を強め、金銀箔の生産も金座、銀座の管理下に置かれ、箔の製作は江戸、京都、大阪以外では認められなくなり、加賀藩での箔の製作は、文化5年(1808)、金沢城二の丸御殿の再建まで待たれることになったと書きました。
(元禄以後、江戸、京都、大阪以外では、特別な藩入用として尾張、会津、仙台でしか認められていません。また、特例として天保5年(1832)から3年間という期間付で越中富山藩が認められているそうです。)
今回は、金沢で箔打ちが中断された根拠を探ります。箔打ちが中断された元禄年間から約20年後の享保11年(1726)に細工奉行有沢森右衛門(武貞)の職務日記「御用内留帳」に、金沢城二の丸の修復に際し、町方に金箔を用意するよう町会所から町方に命じ京都から買い入れたと書かれています。少なくとも享保期には、金沢では金箔の製作が行われていないことが窺えます。
(その頃の細工所は武具を修復、および藩主の身の回り品を製作していて、金銀箔や真鍮箔などを多く使用しています。当時、有沢森右衛門と津田伝八郎が細工奉行でした。)
天明期に書かれた「加越能産物方自記」の“金沢箔打之事”は、天明3年(1783)6月、金沢町奉行が金沢における箔打ちについて調査した結果を産物方主付村井長穹に提出された報告書で、その内容を要約すると「この頃、金沢の塗師長左衛門の子木工兵衛が、京都で箔打ちの技術を習得していたが、真鍮箔や銅箔を含めて箔打ちがおこなわれず、金銀箔も下金(上澄(ずみ)の前段階)が入手できないため打つことが出来なかったとあり、隠し打ちが行われた可能性は低い。」と思われます。
しかし、藩としては箔打ちを保護し育成する施策も考えられているようですが、実施するまでは進んでいなかったと思われます。そして村井長穹が2年後に産物方主付を解任されています。
(「加越能産物方自記」は、加賀八家で産物方主付の村井長穹(又兵衛)が、産物方へ提出された願書などを自らまとめたものです。)
ほか「加越能産物方自記」の記事の中に、以前から金沢では真鍮、銅板金は生産されず、上方から取り寄せていたが、町人3人が板金製造の技術を習い、古金などを買い集めただけでは出来高が乏しいと、能美郡の遊泉村の鉱山から掘り出した銅を払い下げて欲しいとの願いが出たことが書かれていますが、銅板であっても、藩は大阪表の銅座に配慮しています。そういったことからも、天明期までは、藩は幕府の禁令を無視し金銀箔の隠し打ちはしていなかったと思います。
(つづく)
参考史料:「金沢箔の再興と「箔業祖記功碑」について」長山直治著・石川郷土史学会会誌第41号抜粋・2008.12.7発行