【金沢・東山界わい】
越野(能登屋)左助の「金箔由来之事」によると、金沢で金箔が打たれるのは、文化5年(1808)焼失した金沢城二の丸の再建の際、押し箔商売人であった安江木町の箔屋伊助が、二の丸造営の金箔御用を命じられたため、伊助は京都より職人を連れてきて、自宅で箔を打ちたて御用を務め、その間に伊助は弟子たちと箔打ちを覚えたのが、金沢における箔打ち最初だと書かれています。
(二の丸御殿に使われた金箔は、四寸角で166,000枚といわれ、二の丸造営の記録である「御造営方日並記」にも書かれています。最初、箔屋伊助が京都から4人の箔打ち職人を集め製作するが、それだけでは不足であと3人を連れてきます。それでも7人で月間7,000枚程度、江戸の箔屋から2度の分かて15万枚を買い入れたようです。)
京都の職人達が帰り伊助が辞めた後、材木町の安田屋助三郎の家に集まって箔を打ち立てますが、誰も製法が未熟で、また、確実に覚えていなかったため越中屋与三右衛門が京都に上り、近江屋忠兵衛方に弟子奉公して技術を覚えて帰ってきたといいます。
(卯辰山の「箔業祖記功碑」には、安田屋孫兵衛が寛政年間(1789~1801)には箔の製造を志、本願寺参詣と偽って京都に数年留まって製箔の技術を学び、金沢に帰り密かの箔を打ち細工所に納めたのが、金沢の箔製造の初めで、その後、孫兵衛は細工所の工人になり文化10年(1813)病没したと有りますが、その息子の安田屋助三郎と弟子の越中屋与三右衛門、越中屋武助がその志をついだが公許が得られなかったと書かれています。碑文は黒木稼堂が、昭和の初め箔業界の古老などから聞き取りで書いたもので、明らかな違いも多々あり、今のところこの碑文は確実な傍証が表れていない限り、参考史料というべきもののようです。)
(イメージ写真・兼六園の雪吊り)
その後、材木町の安田屋助三郎は、文政2年(1819)に竹沢御殿の造営に際し箔の御用を努め、さらに細工所の御用も務めています。文政3年(1820)には幕府は法令を発し、金座に地金を管理させ江戸以外金箔の打ち立てを禁止しますが、文政9年(1829)ごろには加賀藩は表向きは真鍮、錫、銅箔として実は金、銀箔を製造していたらしく、安田屋助三郎と職人は細工所に勤務し、箔の製作にあたったといいます。
弘化2年(1845)能登屋左助が江戸の金座に働きかけて、箔の売りさばきと密造取締りの免許を得て翌年正月には藩はすべての箔売買を能登屋左助経由にするように命じ、後に名字帯刀を許され越野左助を名乗るようになります。
嘉永4年(1851)から安政元年(1854)まで、越野左助が中心になり、一口200目の株仲間により職方組合がつくられ、さらに、安政3年(1856)12月から元治元年(1864)7月まで、山の上宝蔵寺町において職方が集中して金箔の生産修理をする細工場が作られ、百数十名の職方が働きますが、元治元年7月閉鎖され、以後は各棟梁が私宅の作業場に分散して箔を打つようになります。
これが、文政2年(1820)金沢城二の丸造営に際し、金沢箔が最初に打たれてから幕末にいたる経緯です。文政4年(1822)幕府が金箔製作の停止を命じた後20数年、越野左助が金座の許可を得るまで、金沢の職人達はなまじ技術を身につけたばかりに、幕府の禁制と藩の命との板ばさみの中、真鍮箔といいつつ金箔が打たれていたということのようです。
ということは、幕末、越野左助が許可を得るまで約20年間、藩の命とはいえ隠し打ちがあったということになります。
(金箔の上澄(ずみ))
参考史料:「金沢箔の再興と「箔業祖記功碑」について」長山直治著・石川郷土史学会会誌第41号抜粋・2008.12.7発行ほか
(金沢城石川門)